今日のエッセイ-たろう

自己肯定感を上げるとは、行為かスタンスか。 2024年8月26日

SNSで、前職の後輩が「自己肯定感を上げる習慣を取り入れるのは大事だよね」と投稿していた。正直そんなことは考えたこともないし、自分で自分を褒める時間を作るなんてこともしたことがない。うまく出来た時や何かを成し遂げたときは「よし!よくやった!」と思うし、うまく行かなかったときは「今はこんなものか。」と諦める。そのくらいのことだ。

そもそも、自己肯定感ってなんだろう。AI検索によると「自分自身を肯定的な意識や評価で捉え、自分自身への満足度を感じること」らしい。わかったようなわからないような感じだ。もし自己肯定感がなかったら、どうなるのだろう。自己嫌悪に苛まれて精神的に苦しくなってしまうのだろうか。もしそうなら、ぼくは自己肯定感があったりなかったりするのだろうな。

自分自身にあまり期待していない。ぼくなんかよりもずっと料理に詳しくて上手な人はいくらでもいるし、歴史に詳しい人など星の数ほどいる。話すのがうまかったり、思考の深度が深かったり、精神的に立派な人もたくさんいる。

例えば、料理のコンクールに出展したとして、そこで優勝できなくてもあまり落胆しない。自分の立ち位置を知ることが出来た、と思う程度。もっとやれる。そういう自身があったときにそれよりも低い結果だと落胆するだろう。悔しかったりへこんだりしているときっていうのは、「もっとイケると思っていたのに」という気持ちがセットになっている。もちろん、そういうときもある。あるけど、日常的にはあまり考えていないような気がする。

自分への期待値が低い一方で、同時に期待値が高い部分がある。自分自身の未来だ。今はまだ到達していないけれど、コツコツと努力すればなんとかなるとも思っている。楽観視しているというよりは、達成するためのプロセスを見つけて、十分な時間と労力をかければ、ある程度形になるような気がしているんだ。やろうと思えば何でもできるし、そうでなければ何も出来ない。将来の自分に対しては期待値は高い。

ただ、時間切れのものもある。今から陸上競技で世界一になるのはちょっと難しいし、サッカーワールドカップに出場するのも無理だろう。そういうのは手を付けないし、だめだったとしても「やっぱりな」となるだけのことだ。わかりやすいのでスポーツを引き合いに出したけれど、日常の中にもこういうことはあるだろう。誰かに迷惑がかからないようには努力をするけれど、それ以上のことは求めないかな。

だいたい、人間なんてものはずっと右肩上がりに成長するなんてことはないんだ。とも思っている。なんだか世捨て人みたいだけど、実際そうだと思う。ふぐの薄造りは、はじめの頃よりもずっと上手になったし、そこそこイケてると自分でも思っている。だけど、いつかその技術は下降していく。あれだけ美しい包丁技術を持っていた父も、今では思うように発揮できなくなっている。ずいぶん前に書いたエッセイを読んで、「良いこと書いてあるなあ。勉強になる。」などと他人事みたいな感想を抱くこともある。数年前の自分と比べて、さほど成長していないどころか、忘れているのだ。毎日出来ていたことも、今は疎かになっていたりして、反省することもある。

立川談志氏が落語のことを「業の肯定」と評したけれど、自分自身も落語の登場人物になりうる人物なんだ。動画やSNSで時間を溶かしてしまったとしても、それも自分だしね。まぁ、愛嬌だ。

今日も読んでいただきありがとうございます。2つ、大切にしている言葉がある。「よくやったと自賛できる一日を」「才能を独り占めしない」。どちらも稲盛和夫氏の言葉。自己肯定感とは関係ないかもしれないけれど、こういうのを指針にしてみて、出来たら「よし!」と思うし、出来なくてもへこまないくらいの感覚かな。そういう「スタンス」であって、「時間を作ってどうにかする」というものじゃないんだ。ぼくにとってはね。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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