今日のエッセイ-たろう

「蚊が増えた気がするなぁ」と思っていたら、「記憶って何だろう」と考えていた。

「なんだか、最近、蚊が増えたような気がしない?」
今年は特に多いらしいけれど、言われてみれば昔よりも多い気がする。地域によっては、蚊取り線香1つでは家を守れないらしい。家のあちこちに設置することになるのだけれど、それだと家中が煙たくなって仕方がない。そういう意味でリキッドタイプが重宝するのだとか。

今と昔の自然に耳を傾ける

昔はどうだったのだろう。そう言えば、祖父の生家ではあまり気にしていなかったと記憶している。もちろん蚊に刺されることはよくあった。なにせ、背に山を背負い、目の前には水田が広がる、という田舎の農家なのだ。蚊がいないほうがおかしい。

けれども、現代よりも少ない印象がある。日中は網戸をすることなく縁側はあけっぴろげだし、土間に続く玄関も開けっ放しであることが多かった。そんな生活をしていたのに。夏の日中は気温が高いので、蚊の活動も少ない。その印象が強く記憶に残っているのかもしれない。夜になれば蚊帳の中で寝ていたのだから、やっぱりそれなりにいたのだろう。

「そう言えば、最近カエルの声が静かだよね。」
我が家の裏には貯水池がある。季節になれば、夜は眠れないほどに騒々しい。アマガエルがグワッグワッと大合唱、それを突き破るように大音声を響かせるウシガエルたち。そこにたくさんの夏の虫たちがいろんな音色を加えると、迫力のあるオーケストラになる。自然を堪能しているときは豊かな気持ちになるけれど、寝るときには煩わしい。それでも慣れてしまうのだが。

カエルはいろんな羽虫を捕食する。蚊を食べることもあるし、オタマジャクシもボウフラを食べる。多少なりとも蚊の大繁殖を抑えるような存在だったのだろう。もちろん、蚊を捕食するのはカエルだけではない。メダカやゲンゴロウ、ヤゴなんかもいる。ツバメやコウモリなんかも捕食者だ。
彼らはカエルのように大声で存在をアピールしない。だから、ちゃんと観察しないと数が減ったかどうかはわからない。ただ、以前よりは住みにくい環境になっただろうな、とぼんやり思っている。ぼくが子供の頃は、田んぼを覗き込むとメダカやオタマジャクシ、タニシにザリガニなんかがいて、それなりに賑やかだったな。今はどうなんだろう。

記憶ってとてもあいまい

同じ時代を知っている人とだったら、こういう話ができる。お互いの記憶を持ち寄って、なんとなくだけど当時のことを想像できるからだ。基本的に、自分の記憶は信用していない。小学生の頃に見たはずの景色は、その多くが虫食いのように欠落して記憶されている。

日常の風景こそ欠落しやすいかもしれない。覚えようとも思っていないし、記憶に残るほどのインパクトがない。それでも景色を思い出せるのは、何度も繰り返し同じ場面に触れたからだろうし、インパクトのある別の事象の背景だったからだろう。
たぶん、みんな似たようなものだろう。ただ、お互いに持っている覚えている部分が違うので、補正し合って思い出せる。記憶を引っ張り出してくるのだ。

いつだったか、こんな話を聞いたことがある。
多くの生物は寿命が短い。だから、遺伝的変質が起こりやすいのだけど、おかげで環境変化に対応できる。一方で、哺乳類のような寿命が長い生き物は、環境変化に対して別の戦略をとっている。経験と知恵。脳の発達がそれを可能にした。
とかなんとか。それこそ、あいまいな記憶だ。

これはひとつの解釈かもしれない。門外漢のぼくにはその真偽はわからないが、説得力のある話だと思っている。この解釈のとおりなら、ぼくらは記憶力のおかげで生き残ってきたってことだ。
で、頼りとなるべき記憶は、そのままでは当てにならない。鮮明に思い出せる過去って、どのくらいなんだろう。人によって差はあるだろうけど、ぼくなら20年前くらいが限界かな。それ以上は霧がかかった感じがする。

記憶を使えるのは何年くらいだろう

体験の記憶だけに頼るには、現代人の人生は長過ぎるのかもしれない。体験をバッチリ記憶して、そのデータを使うことが出来るのが20年だとする。脳の発達が完了するのが30歳くらいらしいから、ピークは50歳くらい。なんてこともあるかもしれない。

となると、外部に記録しておくのがいいのか。日記は、割と印象に残ったことを中心に書きたくなってしまう。本当に毎日書いている人は、印象に残らないほどの日常も書く、というか「毎日続ける」が優先されるから、出来事の大きさに関係なく書かざるを得ない。

これは書いた本人にとってはとても良いデータになる。読み返すことで、ある程度その時の体験や環境を思い出すことが出来るからだ。全てが書かれていなくても、それを呼び水にして思い出せる。他人にとっては事実の断片でしかないけれど、それはそれで有用な気もする。実際、食文化史を学ぶときは過去の日記群が一級の資料になるのだ。なにせ、他人から見たらどうでもいいことがそのまま書いてある。イベントではないことがわかるというのは、実はとても重要な手がかりになるのだ。

客観的な事実と、体験した感覚。たぶん、このふたつが揃うと経験として生きてくるのだろうと思っている。本当に歴史を学んでいる人のなかで、その当時の環境や人の感情を想像する人がいる。疑似体験するのだろう。ただ、疑似体験するためには、自分自身が日々の生活の中でいろんな体験をしていないといけない。疑似体験は、実体験をもとに知識を合成して作られるものだから。そう考えると、子供の頃の時間の多くを座学以外の体験に使ったことは大きな財産になっているのだろう。

今日も読んでいただきありがとうございます。

客観的事実と体験の記憶。この数年で、2つの組み合わせの大切さを強く感じるようになったんだよね。不勉強でもいけないし、頭でっかちでもいけない。
蚊に刺されたり、カエルの声に起こされたりしたことが、ここでこうして文章になったわけだけど。なんの役にも立たない。ただちょっとだけ、風味が加わったかもね。隠し味程度に生姜汁を絞るくらいに。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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