「幸福感は快楽の増加量に比例する」を実装した生活と食文化。 2023年6月2日

美味しいものを食べると、ほんのひととき幸せな気分になる。不思議なものだ。直前までお腹が減っていることを理由に少しばかりイライラしていたとしても、あっという間に幸せな気持ちになることが出来る。人間というのは、なんとも単純な生き物なのだろうと感じることがある。

そういえば、「幸福度は快楽の総量ではない」という話を聞いたことがある。相反過程理論というらしい。難しい単語はさておき、「幸福度は快楽の増加量に比例する」ということなのだそうだ。

論文に書かれていた例がわかりやすい。サウナに入ってしばらくすると熱のために耐え難い苦痛と不快におそわれる。しばらく我慢していると慣れてきて不快は和らいでいく。サウナ室から出るとホッとして開放感を伴う快さをが訪れるのだけれど、それも時間とともに快い感情は落ち着いてきて平静状態へと戻っていく。

グラフにするとわかりやすいのだけれど、横軸に時間、縦軸に快楽をおいたとき、快も不快も体験の直後に最大値に達するのだが、その後ゆるやかに安定した快楽や不快の状態が継続して、時間が経つと平静状態に向かっていくということが示されている。

この感情の振れ幅の大きさが幸福や不幸を感じることに繋がるのだ。

食事の場合、最初が一番振れ幅が大きい。で、同じものを食べ続けた場合には、徐々に最初ほどの感激を味わうことがなくなってくる。それでも、美味しいから満足感は続く。一旦箸を置くと、しばらくはなんとなく物寂しい気持ちにはなるのだけれど、そのうちに食事を中断してしまうと食欲が減退してしまうということもある。ということが挙げられている。

「そうか。だから、長時間の食事ではコース料理が発達したのか」と、思いついた。この気付きについて、少し順を追って話を進めていく。

そもそも、動物としては食事の時間は短いほうが良いはずだ。食事中は外的に襲われる可能性が高いというのが、野生の動物にはよくあることである。人間が食事に時間を割くことが出来るようになったのは、集団で生活をすることによって一定の安全を確保すること出来たからだろうか。集団というのは強い、ただ同時に集団を維持するためのコミュニケーションが重要になる。

そこで、コミュニケーションを取るための手段としての食事、つまり共食の文化が発達したのだろうと想像している。一緒に食事をすると仲良くなるというのは、動物的な感覚によるものなのかもしれない。

時間をかけてゆっくりと食事をする。そして、それをベースにコミュニケーションを図る。これらに寄与したのが酒類と料理だと思う。料理は最初から最後まで同じという場合もあるし、そうではない場合も登場した。前者はバーベキューのような場面を想像するのが良いかもしれないし、みんなで鍋を突くような文化もこれに該当するのかもれない。後者は、富を獲得した上流階級の中で培われた文化である。

食文化の歴史の最初の方は、複数の料理がたくさん並べられるというのが各地で見られる。それが徐々に時間軸を持った展開へと発展していくのも世界各地で見られる現象である。最初は焼き立てを提供するとか、そういう合理的な理由で始まったのかもしれない。ただ、これがなかなか良い効果を発揮してくれて、飽きずに食事を続けられて、コミュニケーションのための饗宴と相性が良かったのだろう。

コミュニケーションを円滑にするための饗宴なのだから、平たく言えば仲良くすることが肝要だ。当然だけど、それには不快な感情など無い方が良い。ずっと幸福度が高いほうが良いのだ。けれども、相反過程理論によると、幸福感は徐々に安定して平静に戻っていく性質があるという。そこで、一つ一つの料理のボリュームを抑えて、目先の快楽を変化させるということに繋がったと考えられないだろうか。

ぼくらが提供する会席料理も、温かいものと冷たいもの、しょっぱいものと甘いもの、油っぽいものやすっきりしたもの、などの様々な軸で構成を考えていく。所々に、あえて苦いものや酸味の強いものや辛いものを織り交ぜることもある。そうすることで、食事の時間に起伏をつけるのだ。

例えば、揚げ物や肉料理を提供したとする。そうすると、最初のうちは良いのだけれど、少しずつその油が強く感じるようになって食欲が落ちてくるということがある。ギリギリの分量を見極めて、少しだけ多いくらいにする。もう満足だ。という段階で、さっと酢の物や渋みのあるものを提供する。そうすると、口の中がさっぱりして快くなる。といった具合だ。もちろん、個人差があるので毎回ピッタリに調整することなど出来ないのだけれど、なんとなく感情の起伏を想像しながら構成を作っていくのだ。

これが合っているかどうかはわからないが、この考え方は献立を考える上では有効だろうと思う。料理人としては良いことに気が付いたと、少しばかり嬉しくなっているところだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。もしかすると、ハレとケというのも幸福度の調整機能を持っていたのかもしれないなぁ。ずっとハレの状態ではなく、ケの状態に対して所々にハレを作り出していく。嬉しかったり悲しかったり、日々の生活の中に感情を触れさせる行事を忍ばせておく。で、神事や祭りでは思い切り感情を振り切る。そういう生活だったらしいのだけど、日常生活を幸福に過ごすための工夫なのかもね。

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コメント
  • […] このことについては1ヶ月前のエッセイでも書いている。(「幸福感は快楽の増加量に比例する」を実装した生活と食文化。)相反過程理論をヒントに、思いついた仮説である。ぼくの主張はこうだ。伝統的な日本人の生活は「ハレとケ」の組み合わせである。これは、平常時を安定させることによって幸福度を持続させるための仕組みだと言えるのはないだろうか。つまり、幸福度のSDGsだ。 […]

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