「言葉は心を超えない。とても伝えたがるけど、心に勝てない」
CHAGE and ASKAの有名な曲のフレーズ。曲そのものは、恋愛を歌ったものではあるのだけれど、どうにもこのフレーズが心に焼き付いたまま数十年を過ごしている。
「そして僕らは、心の小さな空き地で、互いに振り落とした言葉の夕立。答えを出さない。それが答えのような」
これもまた、CHAGE and ASKAの別の曲のフレーズだ。
どちらも、わかるようなわからないような感覚があって、ずっとぼくの心の中に居座っている。面白いものだ。言葉は全てを語り切ることは出来ないと言いながら、そのことを語っているのは言葉なのだから、永遠の矛盾が循環するような感覚すらある。
先日、古今和歌集の仮名序について少し触れたのだけれど、どうもぼくは言葉というものに興味があるらしい。それも、最近のことではなくて、ずいぶんと前からのことらしいのだ。
言葉は不完全である。心の機微を伝えきることなんて出来ない。と同時に、世の中の目に見えていることすらも、性格に記述して伝えるなんてことも出来ない。そんなふうに思える。
例えば、赤という色を想像してみる。言葉にするとシンプルに赤なのだけれど、いま想像している赤は、人によってマチマチだろうと思うのだ。少し黒ずんだような赤。逆に少し淡い赤。黄色がかった赤もあるし、光沢のある赤もある。紅葉のような赤だったり、ポストだったり、信号機だったり、トマトのような赤だったり。細かく表現しようとすると際限がない。だから、日本の色彩表現は世界で最も多いと言われていて、赤だけでも無数の色を表す言葉が存在しているという。
けれども、それぞれの赤を知らない限り、どんなに言葉を尽くしたとしても正確に伝えることなど出来やしない。紅葉やトマトやリンゴを例にして表現したところで、それらは個体差がある。仮に、それらの色が一定だったとしても、それを見たことがない人には永遠に理解できないだろう。極端なことを言ってしまえば、生まれつき目が見えない人に、色を伝えることなど出来ないのだ。
そう考えると、言葉というのは個々の体験に依存していると言えるような気がしてくる。「あなたも似たような体験をしているはずだと信じている」というのが前提にある。だから、その体験の記憶を想起させるような言葉を使う。そうして、なんとかかんとか「伝えたいことを伝えようとする」わけだ。
となると、言葉は本質なんか一つも語っていないのだろうか。本質的な感覚は聞く人の心の中にある。言葉はそれを引き出すための道具でしか無い。ということも出来るような気がする。
この感覚は、実に東洋哲学っぽい。とても感覚的である。たった今、言葉で表現したことですら、正確に表すことが出来ている感覚がないのだから。これまた興味深い現象だ。
西洋哲学の文脈だったら、こうしたことは認められないかもしれない。ちゃんと学んだわけじゃないのだけれど、西洋哲学では言葉による記述には強いこだわりがあるように見える。とにかく、しっかりと言葉で定義する。歴史上多くの人達が、先人たちの哲学思想を学んで、それを批判しながら言葉によって積み上げてきたように見えるのだ。
ソクラテスっていうのは、そういう人だったんじゃないだろうか。色んな人に質問する。ちゃんと言葉で説明してくださいって、しつこく掘り下げていく。論破したいわけじゃなかったとは思うのだけれど、結果として質問を受けた人たちは、言語で説明しきれなくなって音を上げる。で、結局わかっていなかったと。不知の知覚というやつだ。無知の知とも言われる。
でも、もしかしたらわかっていたかもしれない。言葉で表現しきれなかったとしても、体験として理解していたかもしれない。言葉による説明が不完全であっても、それは言語化能力の話であって、体験としては本質を理解していたかもしれない。そんな風にも解釈できるのじゃないだろうか。
今日も読んでくれてありがとうございます。きっと両方とも大切なんだろうな。「不立文字」という言葉が好きなんだけどさ。文字で学ぶだけじゃなくて体験が大切だよってことだと思うんだ。で、同時に文字による学びもなくちゃ体験による学びも深まらないよってことのように感じている。