インターネットが社会に普及し始めてから、もうどのくらいの時がたったんだろう。身近になったという意味では、携帯電話でインターネットが出来るようになったあたりが始まりかな。
20年くらい前のことだけれど、飲食店の口コミサイトが登場した。会社の飲み会だとか、何かの集まりにはとても重宝した記憶がある。まだ、利用者による口コミや評価というのはあまり多くなくて、近隣の飲食店の一覧を見られるという感覚だったかな。電話帳の進化版くらいの使い方だったのかもしれない。あくまでも、ぼくの場合は、という話。
ほどなくして、口コミサイトは大きなものになった。多くの人が口コミサイトを閲覧するようになって、店選びの参考にされているわけだ。それはとても便利だけど、同時に失われた経験もある。例えば、デートしている時になんとなく雰囲気が良さそうというだけの理由で立ち寄ることがあるじゃない。そして、店選びで失敗することもあったんだよね。情報が少ないってことは、そういうことあがあるわけだ。
いわゆるハズレだけど、その時の二人にとってのハズレであって、他の人達にとってはそうじゃないかも知れない。だけど、こういう失敗みたいなものがあるっていうのも、それはそれで良い思い出だったりする。
じゃあ、口コミサイトが発達したあとなら失敗がないかと言うとそうでもない。ネット上の評価が高いからという理由で行ってみると、ハズレということもある。どうも、評価している多くの人たちとは味覚が違うらしいので、それは仕方がない。味覚なんて言うものは、ひとそれぞれなんだからね。自分にあっているかどうかなんて、口コミだけで判断できるはずもない。
結局、口コミっていうのは「自分以外の誰か」の評価なんだよね。だから、その「誰か」が「何者か」ということが大切なんだ。例えば一人の人がいろんなお店の口コミを投稿しているとする。それぞれのコメントや評価を見れば、その人がどんな好みで嗜好性を持っているかがぼんやり見えてくるかも知れない。自分と近いものを持っているなら参考になるだろうし、そうでなければ参考にしないほうが良いということになる。
多くの人が高い評価をしているからと行って、それがそのまま自分の好みと近いかどうかはわからない。周りの人が旨いと言っているからと言って、自分がそれに迎合する必要もない。ってことで良いんじゃないかな。ただ、なぜ多くの人がそれを好んでいるのかという部分は興味があるけどね。
認知バイアスがかかっているという意味では、書籍もそうだよね。読者のレビューもそうだけれど、筆者の意見というのもバイアスがかかっている。どんなに頑張って事実だけを並べようとしても、どこかに意見とか意志が紛れ込む。むしろ、意思が無いと書籍としては面白くないのかも知れない。そういう意味では、書籍も口コミサイトと似ている部分がある。歴史のこの部分を味わってみたら、どう感じたか。というのが解釈のように思えるから。
そうなると、誰がどんな立場で書いた書籍なのかも重要になってくるんだろうね。何かの専門家なのか。在野の研究者なのか。普段からどんな思考をしているのか。とかね。
沢山の人の意見をまとめたものは、例えば実験ならデータがたくさんある状態。これに対して、著者の意見というのは観察された対象が一つしか無い実験と同じように見える。なのだけれど、その一つが何なのかってこと。つまり、たった一人の著者が言っているだけなんだけど、多くの情報や考察の果にたどり着いた意見であれば、それはかなり重要な重みを持っている可能性がある。その他大勢の意見よりも尊重される事があっても良い。
これには、弊害があって、たった一人の賢者が間違ってしまった場合には、それに従う人すべてが間違う。なんとか委員会とか検討会で、たった一人の権威によって決まってしまうことがある。他の人達はなんのために集められたのかっていうくらいの一撃。
どちらもわかった上で、「他人がする評価」「他人の意見」を参考にするくらいの感覚が良いのだろうな。
今日も読んでくれてありがとうございます。いつだったか、「それってあなたの感想ですよね」と言われたことがあった。料理に関することで、意見を述べろと言うので喋ったら、有名人のセリフが返ってきたんだ。根拠を提示したつもりだったけれど、感想でもある。というのは、食レポなんて、感覚でしか無いのだから当然のこと。
「確かに感想です。ただ、食のプロとしての感想でもあるんですよね」ってこともあるよね。