たべものラジオを聞いてくださっている方なら知っているだろうけれど、いつもとんでもないところに「?」を見つけて、気の向くままに調べまくっている。時々自分でも嫌になるくらいなのだが、性分なんだろうね。仕方がない。そのおかげで面白いことを見つけられる時もあるから、良しとするか。
座右の銘と言うほどのことではないけれど、気に入っていて大切にしている言葉がある。「知識は知恵の源泉」「枯れ木に花が咲くを驚くより、生木に花が咲くを驚け」「不立文字」といったところだ。「枯れ木に花が咲くを驚くより、生木に花が咲くを驚け」というのは、江戸時代の学者三浦梅園の言葉。実際は漢詩みたいなんだけど、まぁ意味は同じこと。とんでもないことが起きたら驚くかもしれないけれど、そんなことよりもいつも目にしていることをよく見ると、実はスゴイことなんじゃないかって。たべものラジオのスタイルの原点かもね。
ちなみに、不立文字は禅宗の言葉。書物から勉強することも大切だけれど、真実はそこにはない。文字に立たず。自らの五感で体感しなさいってこと。3つをまとめると「いつもの風景を当たり前と思わず学べ、そして体で感じろ。そうやって得たものを知恵として使え」ってところかな。ぼくなりの解釈だけどね。
こんなところが、たべものラジオの特徴に影響しているんだろうなあ。面倒くさい性格だ。
番組を作るステップはこんな感じ。概略を把握するためにとりあえず1~3冊くらい読む。読書メモを取りながらね。で、全体の構成を考えて、文字原稿を書いていく。書きながら疑問に思ったことは、都度調べる。ネットで理解できないようなことや、深みにハマりそうな内容だったら追加で本を買ったり、解説動画などで勉強したり。ある程度進んだら、番組の時間を想定しながら手書きのシートにまとめていく。この時、不要な情報や追加したら面白そうなエピソードを加えていく。
改めて文字起こししてみると、メチャクチャ面倒くさいことやってるなあ。実際、文字原稿が無くても読後すぐだったら簡単なメモだけで喋れるとは思うんだ。とは思うんだけど、なんだか違う気がするのよ。自分の言葉が空中を滑っていく感じがする。というのも、ほとんど本の受売りになるからね。それはそれで良いのだろうけど、なんだかしっくりこない。それに、喋ったあと忘れちゃうことも多くてさ。
もしかしたら、こういう面倒くさいことをやっているおかげで知識が蓄積されていくのかも。
手書きシートに書き起こすのは、要約するため。この作業のお陰で、なんとか聞ける程度の情報量になっているんだろうし、話がまとまるんだと思うんだ。これを省くと話が散らかりそう。で、この手書きシートを書くための資料として、自分専用の教科書として文字原稿を書いている。そんな感覚かな。
そういえば、最近、文字原稿の価値はもうひとつありそうだと思うようになった。思考の速度をゆっくりにすること。当然だけど、文字を入力するスピードは思考速度よりも遅い。しかも、それなりに気を使っていないと文章が成立しないわけだ。話し言葉の場合は主語と述語がちゃんと完成していなくてもなんとかなるし、一文が長くても聞けてしまう。だけど、文章に書き起こす時はそうはいかないよね。まともに読める程度には文章にしなくちゃいけない。自分しか読まないとしてもだ。だから、考えるスピードは必然的にゆっくりになる。
ゆっくりと、しかも文章の整合性を考えながら書いていくと、普段なら気が付かないところに注意が向く事が多いんだよね。「あれ?これ、ホントに合ってるんだっけ?」「なんだか辻褄が合わないんじゃない?」とかそんなことを感じるんだ。気がついちゃったから、しょうがない。ちょっと調べてみる。とりあえずウィキペディアとかで。そこでなんとなくわかったような気持ちになるんだけど、時々そうじゃない時がある。それまでに読んでいた本の内容と整合性がとれないとか、他のサイトと話が合わないとか。となると「どゆこと?」ってなるじゃない。だから、また色んなところを探りに行くんだけど、ネットで調べるのがめんどくさくなって、また追加で本を購入しちゃったりもする。こういう時に、学生時代の教科書を開くと、教科書ってスゲーって驚くんだよ。辞書もそう。ホントに偉大だよなあ。世の中の書籍の中で、最もコスパの良いものは教科書かもしれない。
今日も読んでくれてありがとうございます。思考のスピードをコントロール出来たら良いな。レスポンスよく対話したり議論なら、ハイスピード。それから、しっかりと事象を把握して思考を巡らせる時はロースピードってな具合にね。ついでに喋るスピードもゆっくりになるとなお良い。