たべものラジオに限った話じゃないのだけれど、どんなメディアも結局は「その人から見た世界」を表現している。こればっかりはどうしようもないよね。いわゆる「バイアスがかかっている」状態。つまり、世の中のほぼすべての情報は、バイアスがかかっているはずだ。
漫画の世界だってそう。ぼくらの親世代からは、漫画ばっかり読んでいると頭が悪くなるということを言われた。けれども、そんなことはないよね。バランスは悪いかもしれないけれど、なにかしらの業界に特化したマニアであることも多い。こち亀は社会を切り取って分解して眺めているようなところがあるし、ブラックジャックによろしくは医療世界のはなし。ファンも多いけれど、一方で反論もあるのかな。ぼくは知らないけれど、それぞれ作者から見た世界観でしかないのだから、アンチがあっても当然だよね。ただ、いろいろと調査して理解した上で描いている。同業者の中でも意見が分かれることがあるように、それは問題じゃない。
ちゃんと調べて、作者の目線で描く。
ぼくにとっての漫画ってそういうものなんだよなあ。そうじゃないものもあるのかもしれないけれど、ぼくというバイアスがそのように感じさせてしまう。ややこしい。
そうそう。美味しんぼもかなりバイアスがかかっている。作者の調査が尋常じゃないことは、結構有名なのだけれど、その思想も興味深い。最初期の美味しんぼは、北大路魯山人の思想がとても強いように感じる。海原雄山の初登場のシーンなどは、まさに魯山人のエピソードそのものだしね。初期のころは、作者の目線で「日本の美味」を本気で追求するというスタイル。そういった勉強をする中で、魯山人という偉人の思想からも大きな影響を受けたんだと思う。徐々にその影響から脱していったようだけれど、それは作者が勉強し続けた結果かもしれない。自分の思想を持つに至ったんだろうか。
漫画だけじゃなく、テレビ番組だって新聞だって書籍だって、みんなみんな生きているんだ。バイアスなんだ。誰かしらの視点が必ず入っている。いや、実際にはグラデーションなんだと思うけれど、それでも「誰かの視点」なんだと思うんだ。そう思って情報に接する方が健全な気がするんだ。
そう思って情報に接すると、「それってホントにそうなのか」という気持ちが常にある。まぁ、全てを疑ってたら生活が成り立たなくなっちゃうんだけどさ。でも、全てをうのみにするのもどうかと思うんだよね。最終的には「○○さんが言っているんだから正解」になっちゃいかねない。それって、〇〇さんを信じているわけで情報を解釈していないってことだ。ちょっと危うい感じがするんだ。それもダメじゃないけれど、人っていうのは誰かと完全に一致することはないから、自分と常に同じ発送をするわけじゃない。それに、「絶対に間違わない人」なんていないじゃん。○○さんの考え方が好きかも、くらいにとどめておくと良いかもね。
何でもかんでも疑ってたらキリがないんだけど、一定は疑ってかかったほうが良いと思う。疑うって言うと言葉が悪いけれど、「バイアスがかかっているんだよなあ」っていう前提で情報に触れるっていう姿勢なんだと思うのよ。デカルトが言っている「方法的懐疑」ってそういうことだよね。というのがぼくの解釈ね。
偏見とか、一見すると真実のようにみえるけれど不確実なものとか。そういうのを排除するためのテクニックとして「疑う」ってこと。だと勝手に思っている。なんとなくデカルトは好きになれないんだけどね。それは、思想とか能力じゃなくて、キャラ的なことで。なんか、やたらとこじらせがちな人に見えちゃって。というのは、ただの妄想。めっちゃバイアスかかってる。でも、思考方法として共感するんだよなあ。
山ほどの資料にあたって、本を読んでみて、素人なりに一生懸命解釈して。そういうことをしている。たべものラジオはそういう番組ね。インプットする情報も常にバイアスがかかっているものとして疑っている。だから、ひとつのテーマでも別の著者の本を用意するようにしているんだよね。そうすれば、一見して矛盾しているように見えるポイントが見つかるんだ。自分では気が付かないからさ。その差分を見極めようとするだけでも、十分に解釈が深まると思うんだよね。
で、結局のところ、たべものラジオは、たべものラジオの視点で世界を語っているにすぎない。バイアスの塊なんだよね。
今日も読んでくれてありがとうございます。無限ループが面白い。バイアスのことは、よく色眼鏡に例えられるよね。赤いレンズのメガネをかけていると、赤という色に気が付きにくいみたいなこと。で、その色って人によって違うんだよね。光ってさ、すべての色を重ねると白くなるんだ。どんどんクリアになっていく。そんな感じが良いんじゃないかな。