世間という言葉は、なんとも見事に社会を表しているなあ。最近になって、そんなことを思うようになった。ついぞ、しばらく前まではほとんど意識することのなかった言葉だ。ぼくらよりも前の世代の方々は、よく世間体という言葉を使っていたのを覚えている。それすら、ぼくには煩わしく、得体の知れない言葉だったのだ。
「人間万事塞翁が馬」という言葉がある。たまに耳にすることがあるのだけれど、これを「にんげん」と読む方がいる。正しくは「じんかん」。人と人の間。世の中の繋がりのようなものを表している言葉だ。実際は違うのだろうけれど、言葉としては世間と近い概念に思える。
世間よりも人間の方がより社会の雰囲気を表しているように思える。人と人、人と自然、人と神、人と人工物、自然と人工物。まぁ、組み合わせは何でも良い。何かと何かの間に、ある得体の知れない空間。実は、社会というのはこの空間によって成り立っていて、ときによっては空間に支配されているのかもしれない。
よく、空気を読むという表現がなされる。このとき、空気を支配しているのは誰だろうか。5人の人がいて、そのうちの誰かが規定しているのだろうか。このくらいの少人数だったらそういうこともあるかもしれない。では、人数が多くなった場合はどうだろう。なんとなく、なんとなく雰囲気で場の流れを感じる。みんなの顔色を伺うようにして、なんとなく場が醸成されてしまう。これに沿うことを、空気を読むという表現をしているように思えるのだ。
こうなると、人の言動は誰の影響を受けているのかということになる。具体的な誰かではなく、得体の知れない空間によって、行動を左右されていることになるのか。
この空間は、必ず間にある。あいだ。だから、間を形成する両端が存在しなければ、間は消失する。つまり「私」と「あなた」が居て、はじめて二人の真ん中に「あいだ」が生まれるのだ。
人間の個性というものを考えたときに、常にそれは個体の中にあるとする。ただ、それは単体で存在するときの話かもしれない。私一人のときは、あいだが存在していないように見えるからだ。ホントは、違うだろうけどね。今こうして文章を書いている。一人でPC画面を見ながらキーボードを叩いているに過ぎない。だから、個性は個体の中にあると考えることも可能かもしれない。けれども、ぼく自身の中には色んな人の思考が詰まっていて、とんでもなく大きな影響を受けている。いまこの瞬間にここに実体が無いというだけで、誰かや何かとの繋がりがある。そう考えると、あいだはどこにでもあるように感じるのだ。
大事な物の重心点が、己の中にある。それが、複数の人が繋がると、相手と自分の間に移る。「あいだ」に仮想の「重心点」があって、共有する感覚。これが、世間や社会というものなのではないかと思う。こういうことが妙に気になって、色々考えていたらふと思い出したことがある。内村鑑三だ。明治時代の思想家。
彼の著書「代表的日本人」だったか「後世への最大遺物」だったか、どこで登場した言葉なのか忘れてしまったが、彼の著書の中に「life」という言葉が登場する。命そのものだ。わざわざ英語にしたのには意味があるらしい。うまく彼の概念を表現する日本語が見当たらなかったので、当時認知度の低かった外国語を使ったのだそうだ。彼の言う「life」には、生命という以外の思想が込められている。繋がりだ。それも3つあると説いている。人間との繋がり、歴史との繋がり、天との繋がり。
曖昧な記憶なので、少々ふわっとしているのだけれど、たしかこんな感じだったと思う。物理的な空間における繋がり、過去や未来とのつながり、まずこれが社会。そのうえで天との繋がりで輝くのが命。という解釈をしたのだがどうだろうか。
自分の外側にある重心点。自分自身にある重心点。この両方を行ったり来たりするのか、それとも同時に感じているのか。良い表現が思いつかないな。とにかく、この2つがあって、バランスを取っているのがぼくらの社会なのじゃないだろうかと思える。だとすると、どちらかに偏りすぎないことが肝要ということになる。といことかな。
今日も読んでくれてありがとうございます。沢山の人が集まると球体のような世間が形成されていく。とても関係的な社会だ。この想像上の空間は、芯棒がないからふわふわとしていて不安定にも見える。不安定だからこそ、そこに思想みたいなものがあってまとまるのかもしれない。それが宗教なのか、思想なのか、科学なのか、天皇家なのかが担ってきたのかもしれないなあ。自分勝手に社会構造を解釈してみた。