子どもたちの発想は実に豊かだ。ついさっきまで「女の子」だったレゴのパーツは、いつのまにか「建物の一部」になっていて、そのうち「レジスター」に変わっている。元々、「女の子」にも「窓」にも「レジスター」にも見えないただのパーツ。ただ、どこかしらにそれっぽい要素があって、それを見立てに使っているのだろう。ピンクの透き通ったちっちゃなパーツが、このときはそう見えた。
◯◯はこういう形。というフォーマットからどれだけかけ離れているか。というのが、大人と子どもの間に見立ての違いを生じさせているのかもしれない。大人の方が、定義づけの条件が厳しい気がする。だから、複数の特徴が揃っていないと見立てにならない。小さな子は、たった一つの特徴がそれっぽく見えるというだけで、見立てを始めてしまう。到底アイスクリームには見えない雲の形を指さして「アイスクリームみたい」と言い、大人はそれを見て「確かに見えなくもない」と感じる。
一度、こうした「ものを定義する諸条件」を手にしてしまうと、なかなか脱することが出来ないことがある。むしろ、異なる部分に目が向いてしまい、違うと感じることのほうが多い。「似ている」よりも「異なる」に注目してしまうのだ。
代替肉の代表格である「大豆ミート」は、肉っぽくないという評価がされることが多い。ガンモドキは鴨肉からは程遠いし、ウナギもどきという精進料理はタレが蒲焼っぽい味付けになっているだけで全くウナギっぽくない。蒟蒻の刺し身はふぐの刺身とは考えられないし、蒟蒻の入った汁物がたぬき汁だなんて。
夜空を見上げて見える星の群れは、人の形にも鳥の形にも見えない。
解決策として、代替肉はどんどん「肉らしさ」をもとめて開発が進められていく。筋のある感覚、弾力や匂いなど、細かなディテールを突き詰めていけば、より肉に近づいていくだろう。肉の需要が高いアメリカなどで特に活発だが、ホントは日本文化の「細かいところに執着する」性分が向いているのかもしれない。
さて、問題はここからだ。実は「似ていれば似ているほど違いが際立つ」というひとつの傾向があるという。
例えば絵を描く時、練習として有名な作品を徹底的に模写するのだそうだ。とにかくギリギリまで近づいていくと、どうしてもたどり着けない境地を発見してしまう。体が違うとか、気温が違うとか、そういった細かな要因で「絶対的に違う部分」が際立っていく。そして、その違いこそがアイデンティティの拠り所になるのだそうだ。そこから改めてオリジナリティを確立していくという話を聞いたことがある。実に興味深い。
もしかしたら、代替肉はどこまで進展しても代替肉のまま。近づけば近づくほどに「何かが違う」となるかもしれない。しばらくその状態が続き、そしていずれ本物を知らない人のほうが多くなった時、「肉」という概念は「代替肉」こそが本物になる。かもしれない。
こうした未来を妄想した時、料理本が文化的な役割を果たすと思っている。レシピが掲載されていても、ざっくりしたもので構わない。こんな使い方、発想があるんだということがわかれば良い。その世界観が一定数以上に伝われば、新たな食材として広がっていく。そんな可能性を持っていると思うのだ。豆腐百珍をはじめとした「百珍」「秘密箱」シリーズは、そのように機能したのじゃないかと考えている。
わかりやすく代替肉を例にするが、レシピを考えるときに「肉」に囚われすぎだ、と感じる。大きなニュースはだいたいハンバーガーである。ミンチ肉っぽいからって、パティにするしか考えないのだろうか。他にも使い方はたくさんあるだろうに。唐揚げにしてもいいし、おでんの具材にしてもいいし、卵とじにしてもいいし、なにかに塗っても良いし、甘くしてデザートにしたって良いはずだ。
美味しい料理になるかは、工夫次第でどうにでもなるだろう。それに、美味しいものしか社会に受け入れられないから、自然とおいしいものが残っていくことになるんだ。まずければ消えるよ。
今日も読んでいただきありがとうございます。子供の場合、無知であるからこそ発想が自由だと言われている。大人は、中途半端な知識だと囚われてしまうので、もうひとつ突き抜けるための学びが必要になる。その先で、新たな世界を作り出せると思うんだ。