ありふれた日々の生活の中にも、たくさんの「不思議」と「驚き」が潜んでいる。子供はそんな「不思議」と「驚き」の中に生きている。教育がそれを押しつぶすまでは。
犬が宙に浮いたら、大人は驚き慌てふためく。けれども、赤子は受け入れる。それが奇妙な現象だということを知らないからだ。
上記の2つは、別の本の内容。ディテールは忘れちゃったけど、だいたいこんな感じの事が書いてあったと思う。でだ。なんだか反対のことを言っているような気もしていて、だけど同時に妙に納得というか、実際にあることだよなとも思うわけだ。どういうことだろう。
娘たちは、いろんな質問をしてくる。ただ、それは例えば「なぜ朝が来ると明るくなるのか」とか「秋になると葉っぱが赤くなるのはどうしてか」というものは少ない。それよりも、「それは何をしているの?」「どうしてこれをやらなくちゃいけないの?」「お仕事ってなに?」というような、自分や家族の行動に関することの方が多いような気がする。
これは、我が家に限った話なのだろうか。それとも、5歳くらいの子供はそういうものなのだろうか。サンプルが少ないのでよくわからない。
枯れ木に花が咲くより生木に花が咲くを驚け。というのは、三浦梅園の言葉でぼくの好きな言葉だ。たべものラジオという番組は、この感覚を大切にしたいと思っている。いつも当たり前のように食べているものに対して「そもそも、これって何?」「手軽に口にしているけど、実はすごいことなんじゃない?」「ずっとこんな感じだったの?」「なんで食べたいと思うんだろうね」などと、一見素朴な疑問を持つように気をつけている。
これって、意識をしていないとなかなか難しいのじゃないかと思うのだ。一度意識を向けてしまえば、問い自体はどうってことない。ただ、あまり意識しないことの方が多いというだけ。それは、宙を漂う犬を見ても驚かない赤子と同じかもしれない。問を持つ前に、「このワンワンと鳴く四足の生き物は、時々宙に浮かぶものだ」と認識する。一度、そのようにインプットされてしまえば、それは特に驚くに値しないということになるか。
もっともっと日常を過ごす時間が長くなって、めったなことでは「犬が宙に浮かぶなんてことは、滅多にあることじゃないらしい」と知る。レアケースだということがわかってくるのか、それとも大人がそう教えるのか。となると、急に問が浮かんでるのかも知れない。「だけどね。私がもっと小さかったときに、うちのワンちゃんは浮かんでたんだよ?どうして?」
そういえば、娘たちの質問の中に自然現象に関するものもあった。と今思い出した。「お月さまはどこ?今日はいないみたいだけど」「寝てるのかな。お月さまのお家はどこだろう」。暗い時間帯に外出した時に月が見える。これが、何回か続いたのだろう。もしかしたら強く印象に残ったのかも知れない。だから、晴れているのに月が見えないことが不思議に思えたのかもしれない。
もうひとつ、「あっちの空が赤いよ。不思議だね。こっちは黒っぽいのに」。夕暮れの一時に見られる空のグラデーション。彼女にとって、空は青かったり、白っぽかったり、黒かったりするもの。時々窓から差し込む夕日が赤く見えることがあっても、部屋の中からはグラデーションまでは望めない。
「不思議」や「驚き」は、日常との差分に潜んでいるのかも知れない。日常という表現は適切ではないか。「自分で設定した当たり前」から逸脱した状態を見たときに、「これは一体なんだろう?」と驚き、不思議がる。
自分で設定した当たり前というのは、結局のところ思い込めば成立する。通常なんて無いと思えば、全てが不思議だし、全部が通常だと思えばなにも驚かない。ということは、日常をしっかりと観察して、ある程度当たり前を形成するところがスタートになるのだろうか。問が生まれる土壌みたいな感覚。ちょっとずつ、その土壌を耕していくうちに、徐々に問が増えていくのだろうか。
今日も読んでくれてありがとうございます。もし、そうだとすると、だ。世の中の不思議や驚きは、教育の中から生まれていくものってことになるのじゃないかと思うんだ。まぁ、著者の言っている教育がどんなものなのかわからないけれど。