そういえば、最近「怒」の感情が減ったな。なんだろう。歳のせいか。よくわからないのだけれど、あんまり怒らなくなった気がする。イラッとすることはあるんだけどね。それも減ったかな。ううむ。我慢しているのとも違うんだよなあ。なんだろうな。そもそも、そういった感情が湧きにくくなっているのかもしれない。
人間が出来てきたんだよ。と、思いたいところではあるのだけど、そういうことじゃないだろう。そんなに自分を信用していない。ということで、なぜ最近になって「怒りの感情」が減ってきたのかを考えてみようと思う。
なんとなく「諦め」の感情に近いようなきがするんだ。諦めるというと、ちょっとネガティブな印象になるのだけれど、それ以外に適切な言葉が見つからないんだよね。なんと言ったら良いかな。ちょっと気に入らないことがあったとしても、そういうもんだと思っちゃう。どうしようもない。自分がどう働きかけても、すぐにどうこうなるものじゃない。そんな感覚かな。天候みたいなもんだよね。雨が降ったからといって、空に向かって怒ってもしょうがないし。だったら、雨に濡れないように工夫する方が良い。
こうした文脈のことは、結構前から言われているよね。ずっと昔から沢山の人が言っている。有名なところだと良寛なんか、その極地にいるんじゃないかな。詳しくは知らないのだけれど、もうスゴイよね。あの人。
ある時、良寛さんが川を渡るために渡し船に乗った。渡し船の船頭は、「ははぁこれが有名な良寛という坊主か」と思って、ちょっとしたいたずらというか、意地悪をする。川の流れの荒いところに差し掛かったときに、わざと船を揺らしたのだ。船頭の狙い通りに良寛さんは川に落ちてしまった。泳ぐことの出来ない良寛さんは溺れそう。さすがに、やりすぎたと感じたのか船頭は良寛さんを慌てて引き上げたのだ。
「ありがとうございます。あなたは命の恩人です」
良寛さんは、まさかの言葉を発した。
怒るよね、普通。良寛さんから見ても、船頭がわざと船を揺らしたのは明らかなのだよ。その結果として死にかけているのよ。にも関わらず、引き上げられて感謝する。たぶん、こういうことだ。
まぁ、人間だからね。有名人に出会ったらやっかみの感情くらいは湧くよ。そうそう。そういうこともあるよね。まぁ、しょうがない。そういう運命だったんだ。え?助けてくれるの?ああ、よくぞ仏心を抱いてくれた。船頭さん、あんたはやっぱり悪い人じゃない。助けてくれてありがとう。
良寛さんにあったことはないので知らないけれど、どうもこんなことを考えたのじゃないだろうか。もう、メチャクチャなんだよね。ぼくみたいな人間には、とてもその領域に至ることは出来ない気がするの。何するんだよって怒鳴っちゃいそうだもん。
ただ、ちょっとだけ近いものを感じるんだ。片付けができない人、余計なことを口走っちゃう人、ついつい誰かのあら捜しをしちゃう人、計画性のない人、計画するけれど実行力の乏しい人。色んな人がいるよね。で、そういう欠点のある色んな人のうちの一人が自分なんだよね。だってしょうがないじゃん。完璧な人間なんて存在しないんだもの。みんな、どこか違うところが得意で、苦手なんだよ。きっとそうだ。
体だって、髪の毛になる細胞もあれば心臓を動かしている細胞もある。毎日働きまくっていて大変だな。と思っていたら、定期的に切り落とされる。みんな違うわけだよね。でも、それらがみんな集まると体になる。まぁ、そんなもんなんだろうね。
こうして、諦観にも似たような感情が自然と湧いてくるようになったのは、なぜだろうか。それなりに経験を重ねてきたということもあるだろうし、歴史的事象や文化や哲学を読みまくってきたせいかもしれない。どういったことが、ぼくの感情に作用してきたのかがよくわからないんだよね。仮にわかったところで、再現性が無いだろうけど。再現性がないのなら、理由を突き止めることにさしたる意味はない。ただ、単純に構造を知りたいという欲求だけの話だ。自分の変化を構造的に理解して面白がりたいだけ。
今日も読んでくれてありがとうございます。父はサッカーで例えるならメッシだ。点取り屋としては超一流だけれど、ゲームコントロールはそこまででもないし、ディフェンスは世界レベルにはないと言われている。料理を作らせたら天下一品なのだけれど、会社の経営としてはそこそこだし、片付けや段取りに関してはザルだ。で、片付けが下手なことにイライラしたってしょうがないんだよね。そういう感覚。