ロックを語るなら、ローリング・ストーンズくらいは押さえておかなくちゃいけない。という話を聞いたことがある。この話は前にも書いた気がするけど。なんだか妙な話である。今、この瞬間にロックミュージックが好きだというだけで、十分に愛好家と呼んで良い。けれど、古くからロックミュージックが好きだった人は、初期を知らなくちゃいけないと声高に叫ぶことがあるらしい。ホントに妙な話だ。
だいたい、ロックミュージックってそれまでの音楽シーンへの反抗的な態度から生まれたものだったのではないだろうか。だとするなら、高尚なもののように扱う態度は、決してロックな姿勢だとは言えない。
どういうわけか、文化活動というものはいつの間にか高尚なものになっていくらしい。
万葉集には防人の歌など、比較的庶民に近い人の歌が選ばれている。庶民というわけではないけれど、文字を読み書きできる人の中では社会の下層である。「文字を読み書きできる人」という制約があるおかげで、詩歌は貴族を中心とした文化になった。次第に知識は積み重なっていって、過去に歌われた歌を前提とした歌が歌われるようになる。あぁ、この表現は◯◯の歌を踏襲しているから、◯◯の持つ意味を含意しているだな。というメッセージを残す。鑑賞者も古典の知識があるから意味がわかる、という建付け。現代風に言えばオマージュということになるだろうか。
古典の中に意味のパッケージがあって、そのパッケージを使って新しいものを作る。実に面白い遊びだ。何も知らなくても楽しめるのに、教養がある人にとってはもっと面白い。歌を判じるというのは、趣があるものだ。
だけど、古典を知らなければ楽しめない、とか、知らない奴は語る資格がない、となると話は別だ。高尚なことは大いに結構だけれど、その純粋性を高めるために門戸を閉ざすのはいかがなものだろうか。裾野は広くても、高尚なものは高尚なものとして輝き続けられるのではないだろうか。
とうとう、江戸時代初期に登場した松尾芭蕉がイノベーションを起こすことになる。発句、つまり短歌の上の句しか詠まない。しかも、なるべく平易な言葉を使っていて、古典の意味パッケージを使わなくてもわかる。生活の感覚を呼び起こすことで、そのイメージの中の意味を抽出することになった。と言われている。
高尚になりすぎた文化を市民の手に取り戻した。民主化した。と表現される俳諧の発句(俳句)である。ここでの注目ポイントは、芭蕉自身は和歌に関して古典とそこから派生した様々な流れを知っているということ。民主化するっていうのは、ただただぶっ壊せばいいというわけじゃなくて、元々ある素晴らしいものを活かしながら一般に広く受け入れられる形に作り直すってこと。松尾芭蕉が凄いのはここだと思うんだ。
たぶん、民主化的イノベーションを牽引した人は、だいたい過去の系譜を理解しているのじゃないかと思っている。
日本料理文化に目をやると、やはり同じような民主化的イノベーションが必要なタイミングのように見える。
本流だった本膳料理が格式張ったものになり、並行するように茶懐石が勃興。茶懐石と本膳料理をベースに町民の生活様式に取り入れられていった会席料理。そして、近代化と同時に日本らしさを求めた文明開化の時代には、料理屋料理としての会席料理が確立していった。そして、戦後の大量輸送型観光に伴い、会席料理は昭和的宴会料理へと変化。といった具合に、それぞれの時代に合わせて、民主化的イノベーションが起こってきた。
ただ、いつの頃からか「生活様式に合わせる」ことが優先されすぎて、少しばかり過去の系譜を踏襲しない風潮が強くなったように見える。もはや創作懐石や昭和的宴会料理には、元々持っていた良さの部分を見られなくなってきている。
良さを活かしつつ、広く受け入れられやすいもの。はバランスが大切だと思う。だからこそ、民主化的イノベーションを請け負う人は、古典にも精通している必要がある。松尾芭蕉のように、だ。
今日も読んでいただきありがとうございます。掛川ガストロノミーシンポジウムのあと、小倉ヒラク氏とこんな話をしたんだ。懇親会へ向かう車中でね。そしたら、そのために我々がいるんじゃない?って、ヒラクさんに言われたよ。そうかもね。今回は食「文化」の話だったけど、あらゆる産業で同じことが言えて、社会的変化を促しながら古典的な善きものを新たな世界にどのように接続するか、というのは考え続ける必要があると思うんだ。