今年は、新型コロナウイルスによるパンデミックも収まってきて、直接会うことが出来るようになったよね。先日の合同オフ会「たべ農ざく」も、沢山の人が一箇所に集まることが出来た。西は山陽地方から東は東北まで。誰かと直接会うこと。どんな会話をしたかじゃなくて、会うということが嬉しいと感じられるのは、暫くの間「会えない」という環境があったからかも知れない。
会議もオンラインからリアルへと戻った。全てではないけれど、対面の会議も増えた。まだ、うまく使い分けられている感覚はないけれど、これから先は両方を上手に使い分けできると良いのだろうな。
まちづくりや行政に関連する会議も、オフラインが中心になってきた。
市の職員だけで行われる会議と違って、市内外から様々な人が集まって議論を行う会議。組織の内側で行われるものとの違いは、普段のコミュニケーション量が少ないことだろうか。日常レベルで雑談をする間柄ではないので、ほとんど人柄を知らない。会議の中での会話が全てになる。この状況は、コミュニケーションのすれ違いが起きやすいのじゃないかと思う。
ぼくらは、当たり前のように言葉を使っていて、言葉によって議論を重ねるわけだ。議論を重ねることで、何かしらの合意点を探る。ただ、残念ながらその場で発せられた言葉は、全てを伝えられるわけじゃない。全てをうまく言語化出来る人なんてほとんどいない気がするんだ。仮に、それが可能だったとしても、全てを完璧に受け取れる人もほとんどいない。そもそも、全ての感覚を言語化するなんてことが出来るのだろうか、という疑念すらある。
いわゆる知己の間柄であれば、多少言葉が足りなくても言いたいことのニュアンスを汲み取れることがある。なんとなくね。あの人の性格を考えると、こんな文脈だろう。そんな予測が立つ。仲が良ければ、その場で遠慮なく質問することも出来る。
会議参加者の中に何人か仲の良い人がいたとしても、会議中はその間柄がうまく発揮されにくいかも知れない。うまく言語化出来ないのだけれど、なんとなく「公の場らしい態度」みたいなものが優先されているような感覚があるのだ。まぁ、同じメンバーで何度も会議を行っていると、それなりにコミュニケーションが深くなっていくのだが。
もしかしたら、議論を深めるためにはある程度「遠慮しない関係性」とか「意図を汲み取れる情報量」みたいなものが大切なのかも知れないと思う。そして、それには多少なりとも時間が掛かるのだろう、と。
会議が終わった後、リアルの場ではそこかしこから会話が聞こえてくる。近況報告だったり、別件の相談だったり。あとは、「さっきの話だけどさ」という声。会議中に発話すればよかったのだろうけれど、それがうまく機能しなかった。だから、余白の時間で議論が進む。
会議が終わった後、タバコを吸う人は喫煙所に集まってしまうっということがある。場合によっては、昼食や飲み会にでかけるかもしれない。で、会議の中ではまとまらなかった議論が進むことがある。その場に決済者がいると、場合によっては会議の結果が変わってしまうこともある。
リラックスして話ができると、結果として議論がはかどるというのは決して悪いことじゃない。活用の仕方には工夫がいるだろうけれどね。
リラックスした状況をよく観察してみると、わりと突っ込んだ会話をしているみたいだ。それぞれが、それぞれの視点から見た意見を言う。視点が違うから、意見が割れることもあるのだけれど、リラックスしているからなのか「そうか。その視点で見るとそうなるのかあ」などという感心する雰囲気が強くなるようだ。会議場に比べて、対立しにくいかもしれない。人によるんだろうけれど、なんとなくそういう傾向があるように感じる。
コミュニケーションのすれ違いが引き起こす様々なこと。人類は、ずっとこれに振り回されていりるかも知れない。相手の文化や背景、価値観をよく知らない。だから、自分たちのコミュニティの常識で判断しようとしてしまう。「へぇ、そんなふうに考えるんだ。面白いな」という感覚で会話が進めば平和なんだろうな。それで一つの合意点を見いだせるかどうかは謎だけどね。
今日も読んでくれてありがとうございます。近年「コミュ力」って言葉をよく聞くよね。だけど、その正体が何かはあまり言語化されていないままにしている気がするんだ。一般認知されていないという感じかな。相手の文脈を察知して、寄り添うことが出来る能力。というのもその一つだとは思うんだけど、これだけじゃないような気もするんだよなあ。