フードファイターってすごい量を食べるよね。一度に何kgも食べるのだけど、それってちゃんとエネルギーとして使ってるのかしら。よくわからないけれど、苦しそうに食べ物を食べている姿って、つくり手としてはちょっと寂しいんだ。だから、あんまり好きじゃない。
人間が一度に食べられる量って、どのくらいなのだろう。若い頃のように「ラーメン大盛り、チャーハン、餃子」みたいなのは食べられなくなったな。育ち盛りの10代は、筋力も運動量も多かったから1食で2人前は当たり前だった。それでも、太るどころか足りないくらいだったのだ。なんとも燃費の悪いからだである。個人差もあるし、運動量による違いもある。だけど、中央値はだいたい決まりそうな気がするんだけど、どうなのだろう。幅はあるにせよ、例えば動物図鑑で「象は一日に◯◯kg食べる」みたいな感じでさ。
一度の食事量の中央値が決まっている。と、仮に設定してみるとどうなるかな。
食事量と運動量は相関しそうだ。1日2食なのか3食なのかは、社会全体の行動量によってある程度は規定されるのかもしれない。そういえば、江戸時代の後半に油の価格が下がり始めた頃から、お昼ご飯が定着したと言われている。それまでは一日の活動時間は「日の出ている間」だったのが、日没以降の時間にまで伸びたからなのだろう。もし、一度の食事量がもっと多くても良くて、体内に蓄積できるのであれば、1日2食のままでも良かったかもしれない。
ヒトの食事量がだいたい決まっているとしたら、食料生産料が少なければ人口は増えないことになる。当たり前だけど、人口が増えたから食料生産料が増えるんじゃなくて、食料生産量が増えたから人口が増えた。だれか特定の人たちだけが、やたらとたくさんの食料を確保したところで、彼らだけでその全てを食べることは出来ない。食料っていうのは、溜め込んでいても意味がないのだ。だから、偏りはあるにせよ「みんなで食べきる」ことになる。食料が増えると分け合う対象が増えるから、必然的に人口が増えるはず。
いつかどこかのタイミングで、食産業は「生きるため」から「利益のため」に重心が移った。食料は蓄積が出来ないから分け合うより仕方がないはずなのだけど、お金のない人は食料を分け合う対象ではないことになってしまった。分け合わないから、余ってしまう。余った分を処分しなくちゃいけない。なんだかおかしな話だ。余っているのなら、足りないところに回せばいいのに。というのは、社会共産主義的な話をしているんじゃなくて、かつての遊牧民とか、狩猟栽培民の生活を勉強していると、感じること。
一度の食事量が決まるということは、当然人間一人が一生のうちに食べることが出来る食事量も決まる。「利益のための食べ物」ということになると、マーケットサイズは人口と比例する。食品産業は、胃袋の取り合い。ライバルとなるのは、カロリーのあるすべての食品だ。甘い炭酸飲料をたくさん飲むようになると、その分穀物の消費量が減る。油脂をたくさん摂取するから、肉や野菜の消費量が減る。精肉店は、他の精肉店だけがライバルなのではなくて、米もじゃがいもも、炭酸医療もお酒も、みんなライバルという世界だ。
今夜の食事はなににしようかしら?この一言に、食品産業の全てがかかっている。いかに、選んでもらうかが、商売を成り立たせる肝。さもなければ、人間の神経を麻痺させて消費量を増やすしか無い。とい言う話は、砂糖の世界史シリーズでも話した通りだ。
企業の利益を伸ばそうと思うと、シェアを広げるしか無い。シェアが広がると、食の多様性が失われていく。一方で、コスパが向上する。多様性とコスパは、トレードオフの関係になってしまうより仕方がないのだろうか。なんだか、ややこしい話になってきてしまったな。
つまり、だ。食料生産と流通の効率を徹底的に追求していくと、どんどん食の多様性はなくなっていくんじゃないかってこと。それって、良いことなの?悪いことなの?というのが、よくわからなくなってくる。だって、持続可能性だけを考えたら、効率が良いほうが良くて、そのために多様性を犠牲にするのは仕方がないって事になりかねないじゃない。現に、近代以降の世界経済はその方向に進んできていたわけでしょう。
今日も読んでいただきありがとうございます。「食のパーソナライゼーション」については、折りに触れて考えているんだ。でね。パーソナライゼーションが進むと、多様化するわけだ。そうすると、社会構造的にロスが出る気がするのよ。世界の食が均質化するのは好きじゃないのだけれど、効率化と競合するとしたら、それが課題になるって考えたらよいのかな。