砂糖と世界史と社会構造② 2023年3月27日

昨日の続きです。砂糖の話から外れて、おもに社会構造の考察になってきている。

小さなコミュニティであれば、本当の意味での絆を結ぶことが出来る。相互の利益とか、それを担保する仕組みのことではない。もっと情緒的で、ロジックで語ることが野暮なくらいの感情のことだ。冷静な判断をすれば、助けられる可能性は低いかもしれないけど、そんなことは関係ない。助けたいから助けるんだ。そんな感情が繋がる絆。

ルソーの言うように、その感情が支配できる母集団の最大サイズが2万人だったとしよう。友達の輪だと考えると、かなり大きな集団のように見える。一方で、行政区分として見るとかなりコンパクトなものだ。仮に10万人の自治体だとすると、少なくとも5つの集団が相互連携している必要がある。

この集団はどの様に形成されているのか。もしくは、どのようにして作り出していくのか。そして維持していくのかという問題に突き当たる。もっと言えば、絆で繋がる集団とは一体どのようなものなのか、という話に繋がりそうだ。

集団の最小単位は家族である。そんな話を聞いたことがある。一人の人間が所属する家族集団は一つなのだろうか。自分が親として形成する家族、と同時に子として所属する家族というのもあるかもしれない。これは、アメリカ式の核家族というフォーマットであれば、同時に複数の家族に所属しているということになるのだろう。いわゆる伝統的な大家族は、家という傘の下に集う人たちを全て家族とみなしてきた。日本では家社会などと呼ばれる。

さて、この家族の現代を見つめてみると、実は絆というものが希薄になっているかのように見える。親が子に投資をするのは、いずれそれがリターンとなるからだという言葉を聞いたことはないだろうか。教育は子に対する投資。たしかにその面はあるだろう。しかし、それだけでは絆とは呼べないのではないだろうか。もっとシンプルに、我が子に幸せになってもらいたいという気持ちだけで良いはずだ。そこまで露骨ではなくても、親孝行をしておけば、後になって家族関係が良好になるからと考えることはあるかもしれない。これも、リターンを期待しての行動ということになる。もちろん、そんな家族集団ばかりではないだろうけれど、少しばかり気がかりな状況だということは、現状として認識しておく必要があるだろう。

家族集団ですら、絆が希薄になり集団が空洞化している場合がある。これを考慮したうえで、コミュニティの形成についてどのようなものが芯になるのだろうか。

いくつかの解があるのだろうけれど、ぱっと思いつくのは価値観である。共通の価値観。同じ世界と言い換えても良いかもしれない。それは、例えば趣味や好みである。恋愛において、同じ趣味を持っていることや、同じものを見て感動するといったことは、絆を形成する上で大きな役割と果たしているようにみえる。世の中を見渡してみると、同じ趣味の人たちが集まるとあっという間に打ち解けるという現象を観察することが出来る。

つまり、ひとつには共通の価値観や美意識のようなものを持っている人同士は繋がりやすいと言える。

これは、同世代の人同士が繋がりやすいことにも共通する。日本という同質性の高い社会においては、同じ世代と言うだけでも世界を共有するファクターになりうるのだ。バブルだったとか、就職氷河期だったといった経験、同じテレビゲームにハマったり、同じものを流行として楽しんだ経験。これらが、集団の形成に一役買うということもあるだろう。だからこそ、世代論に発展してしまうのだが。

ここで言いたいのは、地域という物質的な距離だけでなく、時間も考慮しなければならないということだ。本阿弥光悦の美意識や、俵屋宗達の絵に共鳴した尾形光琳がその流れを踏襲したのは、百年もあとのことである。思想や価値観というのは、確実に時代を超えて広がるものだということなのだろう。

人間の価値観は多様である。それは、一人の人の中にも多様な価値観があるとも言える。たべものラジオであれば、食、文化、歴史などが要素として織り込まれている。その他に、落語やサッカーなど、個人的な趣味も含まれるわけだ。これら全ての要素が揃うコミュニティは稀であるから、それぞれに特化した複数のコミュニティに属しているという概念が良さそうだ。歴史好きの集まるコミュニティであれば、ぼくはそれなりに楽しめるだろうし、食文化に関しても同様だ。フードテックも料理人のコミュニティでも良い。

同時に複数のコミュニティに属していて、それぞれに異なる繋がり方をしている。そのような社会であれば、絆は作りやすいのかもしれない。仮に10万人の自治体で、そのなかのコミュニティは全て1万人だとしよう。で、自治体の中にいくつのコミュニティがあるかというと、10ではないというのがこの考え方だ。50程度のコミュニティが存在しているかもしれない。

世界を内と外で分けるという視点で社会を見ていくと、このような組み合わせ構造が良いのではないだろうか。

内の世界では、ともするとヒエラルキーが発生する。油断すると、あっという間に既得権益の如きものまで誕生して、その地位を守ることが行動原理となる人たちが発生するかもしれない。そうなったときには、さっさとそのコミュニティを切り捨てて、他の世界で生きていくことだ。もちろん、そんなものが発生しなければそれに越したことはない。しかし、多くの集団では自然発生するものだと捉えている。現代の日本社会では内の世界でポジション争いをしている構造があちこちに見られる。もちろん、歴史の中にも同じ構造はたくさん見られるし、それらの事象は集団の劣化を招くことがわかっている。わかっているのにやってしまうのが人間なのだろうか。

そうであるならば、なおさら複数のコミュニティに跨ることが良い。人というのは組み合わせによって、発揮される能力も影響力も変動することがあるからだ。あるグループでは発言力のある人でも、別の集団ではそうでもないということがある。もし、無理やり持ち込むような人がいるのならば、それは全力で排除して構わないかもしれない。映画「釣りバカ日誌」の中で、スーさんは大企業の社長でありながら、釣り人としてのコミュニティにいる間は分をわきまえている。そこがポイントになるのではないかと思っている。

今日も読んでくれてありがとうございます。17世紀の社会では、どうだったんだろうなあ。仲間に引き込むための政略があったり、仲間ではない集団を妨害したり侵略したり。なのかなあ。イギリスのフランシス・ベーコンは政治家としては失脚してしまったけれど、一方で現代科学に繋がる思想を残した影響ある人だったんだから、王立協会というコミュニティの中ではどうだったんだろう。

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