まだまだ暑いとはいっても、9月も半ばになってくると朝晩は秋の匂いがする。どことなく、秋の風情を感じるのは気温ばかりではないだろう。夏までは青々と茂っていた桜の葉も、道や庭の片隅に集まっている。ほんのりと、秋を感じさせるような匂いがする。ジョギングをする人たちの姿も、少し増えたようにも思える。マーケットに並ぶ食材も、松茸や栗などの秋らしさを彩るものが見受けられるようになった。
季節って、面白いよね。四季というのは世界中のあちこちにあるわけだから、日本だけの風情じゃない。きっと、四季折々の違いを細やかに明らかにしながら楽しむという文化が備わっている地域は、あちこちにあるだろう。僕らの住む日本にも、その文化があることを誇りにも思うし、嬉しくも思う。
季節を感じるのは気温だけじゃない。面白いなあ。季節が変わることの大きな原因は、気温の変化だし、もっと言えば地軸の傾きによって太陽が地上を照らす角度が変わることが原因だ。それらがもたらす沢山の現象が、ぼくらに季節の違いを感じさせるわけだ。
一つ一つの現象には風情を感じるのだけれど、地軸の傾きと地球の公転という話になった途端に風情がないように感じてしまうのだから、人間というのは不思議で面白い。こういう感情に訴えるモノゴトにおいては、天動説も地動説もどっちでも良いように振る舞っているのかもね。地動説っぽい感性なのかな。
秋の気配を伝えてくれるのは一つじゃないよね。食欲の秋、スポーツの秋、芸術の秋、実りの秋、祭りの秋。夏が終わるといろんな秋がある。どれもこれも、秋以外の季節に入れ替えても成り立ちそうな言葉なんだけど、全部が揃うとやっぱり秋なんだよね。
季節って、どれか一つのことがらだけで表されるものでもないのだ。そんな風に感じてしまう。地軸の傾きと公転という絶対的な事実は、真実なんだけどさ。だからこそ、風情が無いように感じるのかもしれない。
こんな話は、実はたくさんあるのじゃないかと思うんだ。たった1つの事象を捉えて、何かを表していると定義する。花が咲いたから春。みたいな言い方。それはそれで真実の一側面。桜が咲いたら春。日本では春以外の季節で桜が咲けば、驚きをもって眺められる。それは事実。だけど、春夏秋冬の全ては一つの事象で表されているわけじゃないんだよね。いろいろと複合的。
人間社会でもきっとそうだ。歴史を眺める時に、この時代はこうだと一言で表すことは難しい。鎌倉時代も室町時代も、江戸時代だって、いくつもの事象が重なっていてその時代を表す特徴になっているんだよね。しかも、文化は分断されない。
今挙げたどの時代も、権力の中心は武士というところで共通している。そこは一緒。一つの事象だけで季節を限定するっていうことは、武士社会という一点だけで時代を特定するようなもんだ。ってことになるんだろうなあ。
これって、現代社会で生活するにおいても同じことが言えるはずだと考えちゃうんだよね。糖質カットや塩分カット、これだけで「健康食」というフレームと同一に考える。たぶん、みんなわかっているとは思うんだけど、そういうフレームで広告するわけでしょう。確かに現代人の多くは、糖質過多、塩分過多になりがちだ。概ね間違っていない。けれども、大きな間違いなのだ。それさえクリアしたら健康というわけじゃないはずだよね。三大栄養素のバランス、ミネラル、ビタミン、運動習慣、体質などなどの色んな要素が複雑に絡み合って「健康」となるわけだ。複数の食材を組み合わせて作られている料理、それを数時間おきに摂取しているというだけでも、既に複雑なんだよね。
複雑なことを複雑なままに理解して、それを現実の生活に落とし込むことはとても難しい。だからこそ、それを本能的にコントロールするためのセンサーが体には備わっているわけなんだけどさ。ちょっとセンサーが狂いやすいんだよね。難しいから、多少なりともわかりやすくする必要はあるんだと思うけれど、だからといって一側面に寄せ過ぎると、本来の「健康」からかけ離れるリスクもあるってことよね。
今日も読んでくれてありがとうございます。たった1つの花が季節を連れてくるわけじゃないってこと。複雑なことを複雑に考えると難しく思えるけど、実は身の回りでは当たり前のことなんだよね。だって、季節を表すのがたった1つの花であるわけがない、ってことは当たり前だと思っているだろうからさ。