田舎のちょっとしたショッピングセンターの出入り口付近。ふたりの男の子がなにやら言い合っているのを見かけた。見たところ中学生だろうか。それとも、高校生なのだろうか。平日の昼間にいるのは不自然のように感じたのだけれど、もう学校は冬休みに入っていることを思い出した。
「大丈夫かなあ」「やっぱり良くないんじゃない?」「だけど、他に無いしさ」という会話が聞こえてくる。何事かと思って、耳だけをそちらに注意を向けてみる。
「だって、缶とペットボトル専用って書いてあるよ。」「だけど、紙パックを捨てられるゴミ箱なんて無いじゃん」
どうやら、店内で購入した飲み物のゴミとなった紙パックを捨てるかどうかを相談していたようだ。確かに、出入り口付近に設置された自動販売機脇のプラスチックケースには「リサイクル専用です。ゴミ箱ではありません」と記されている。そうでもしないといろんなゴミが放り込まれることになるからだろう。しばらく様子をうかがっていると、店内ならばゴミ箱があるかも知れないということになったらしく、ショッピングセンターの中へと入っていったのだった。
日常の他愛もない風景。もしここに、もうひとりの誰かがいて「かまわないだろう」と言えば、紙パックを捨てたかも知れない。紙パックでは通り抜けられそうもない丸い穴に強引に差し込んで。残念ながら、そういった様子のゴミ箱を見かけたことがある。
もし、すでに誰かがリサイクルボックスに別のゴミを放り込んでいたら。彼らは躊躇なく同じことをしたかも知れない。
脆いもんだ。と思うんだ。彼らに限らず、ぼくらの判断なんてけっこう脆い。ほんのちょっとしたことで揺らぐ。日常の些細な会話だし、少し可愛らしいとすら感じるのだけれど、ちゃんと目の前のことに向き合った彼らは、素敵なのだろうと思う。ゴミの仕分けをする人が眼の前にいたら、もっとすんなりと判断できただろうし、その場ではルールに従っただけかも知れない。ただ、少なくとも逡巡し、自分たちの頭で考えて決断するという行為にはほんのりと希望を感じる。
学校の勉強は、いつの間にか楽しくないものになってしまう。ということが多い。もっと幼い頃は、ただただ新しいことが出来るようになるのが楽しかった。100まで数えられるようになった。自分の名前を書けるようになった。一人で折り鶴を折れるようになった。そんなことで、まわりの大人は喜んでくれたし驚いてくれた。
学びとは、本来自分のためにするものだ。ということは言われているし、そのとおりだと思う。だけど、初動の段階では必ずしもそうではないと思う。ただただ大人を驚かせたい。友達を驚かせたい。進んでお手伝いをするのも、きっと喜ばれるからだろうと思う。褒められたいと言うよりも、親の喜ぶ顔が見たいだけなんじゃないだろうか。
勉強をしなくなるとか、つまらなく感じてしまう理由はなんだろう。という問いには、勉強の途中でわからないことがあって、わからないままに次のステップに進んでしまうことだ、という回答を聞くことがある。確かに、それもあると思う。が、それだけじゃないかも知れないとも思う。
勉強なんかしているとモテないという雰囲気。とでも表現しようか。みんなで遊ぶときは一緒に遊べばよいのだけれど、状況によっては遊ぶよりも読書のほうが楽しい時だってある。そういう状況が積み重なると、友達のグループから外れてしまうような危機感が芽生えることもあるんじゃないかと思う。
今では無いのかも知れないけれど、ぼくの古い記憶の中では「まじめ〜」というセリフは決して褒め言葉なんかじゃなく、揶揄するものだった。真面目であることが中傷の対象になるのであれば、それを回避したくなる気持ちが生まれることもあるだろう。
あまり、他人の評価ばかりを気にして生きるのは考えものだけれど、肯定してくれる人がいるというのは、安心するし自信に繋がるよね。これでいいんだ。喜んでもらえて嬉しい。そんな気持ちになる。
今日も読んでくれてありがとうございます。たべものラジオを聞いてくれている皆さんには本当に感謝です。面白いな。きっと価値があるだろうな。と思っていることに共感してくれる人がいるから、頑張れる。気持ちは幼い子供と同じなんだよね。