話し合いという場で、どうしても会話が噛み合わないことがある。それは、それぞれの人が大切にしているポイントが違ったり、思想が違ったり、解釈が違ったりするからで、ある意味仕方のないことだ。むしろ、そうした人たちとの対話は望ましいとすら思う。ただ、上記のこと以外で会話が進まないことがあることに気がついたのだ。にっちもさっちもいかない。そういう状況を何度も体験したことがあるし、多くの人が経験していると想像しているのだけれど、その理由がわかったような気がしたのだ。
会議というのは、合意形成が基本となる目的だという話を聞く。それ以外にも、機運の醸成だとか人を巻き込むという目的もありそうな気がするのだが。まぁ、会議というのを議論と置き換えるならば、そうだろうと思う。
合意形成をする場合には、大雑把に手順がある。ひとつに情報の共有、それから解釈とその根拠となる思考方法の開示。最後に、参加者がそれぞれに導き出した結論と、それに至った論理の開示。で、相互に食い違っている部分や、解釈の発見に驚きながら、最終的に合意できるポイントにたどり着く。とまぁ、こんなところだろうか。
で、完全に話がにっちもさっちもいかない状況になる場合の中で、初手で躓くケースが有る。つまり、情報共有の段階である。
議論というのは、しっかりと事前に情報を調べて、見ることが出来るような情報を開示するところから始められれば良い。国会の質疑では、基本的に事前調査がされた情報をもとに質問をしているはずだ。情報の精度に問題がある場合には、答弁する人が「把握している情報と食い違います」と答弁する。常に国会中継を見ているわけではないけれど、概ねそんな流れのようだ。
ただ、議論が必ずしも会議室で発生するわけじゃない。例えば、居酒屋やカフェで穏やかに会話をしているときだって、自然に行われているだろう。そういう場所では、情報共有は会話でするしかない。ステップが出鱈目でも、お互いに知らない情報を提供しいながら会話が進む。ぼくとあなたの持っている情報をあわせて、このような視点だと、こんな風に解釈ができる。だから、ぼくはこう思うのだけれど、あなたはどうか。表現は硬いけれど、こういうことだ。
だから、情報共有というのはベースになると認識している。
ところが、「いや私はそうは思わない」という言葉が、情報共有の段階で発せられることがある。いや、情報の精度に問題があるとか、解釈が違うというのならそれで良いのだ。例えば、日本の人口は1億2千万人くらいだよね、とか、日本は人口減少トレンドだけれど世界的には増加トレンドだよねといった話だと、困ってしまう。明確になっている数値を、「思わない」では、そのあとの話が成立しないのだ。
料理をするときには、必ず食材が必要になる。人参、ジャガイモ、豚肉、塩、胡椒。とすると、人参とジャガイモは根菜だよね。とか、塩と胡椒は調味料だよね。という事実は事実で良いと思うのだ。もっと言ってしまえば、このオレンジ色の根菜は人参だよねという共通理解くらいかもしれない。
これらの食材から料理をするとしたら、何が出来るだろうと考える。ある人はカレーだと言うし、ある人は肉じゃがだと言い、また別の人はバーベキューだというかもしれない。で、そこにゴボウやネギが加わると、どうなるか。カレーだと思っていた人が考えを変えるかもしれないし、珍しいカレーだと考えるかもしれない。
カレーも肉じゃがも、水料理だ。雑に表現すれば煮物の一種。調理技法というのは、議論の場合は解釈や思考方法のバリエーションに該当するのかもしれない。煮るという調理技法しか知らなければ、なかなか他の調理技法から生み出される料理を思いつかないかもしれない。他にも焼いたり炒めたり、揚げたり蒸したりといった調理技法があるということを知っていること。できれば、ある程度はその調理技法を扱えること。これらが揃うと、解釈は多様になるし議論は面白くなると思うのだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。ホントについ最近気が付いたの。事実確認、情報共有の段階なのに感情で否定する人がいるんだって。少数派なのかどうか知らないんだけど、ちょっとびっくりしたんだ。思い起こせば、過去にも似たような経験があるような気がしてきててね。だとすると、全く気が付いていなかったんだろうな。まぁ、上記で解説した議論のステップが良いかどうかは判断出来ないんだけど。とりあえず、次からは議論のステップというか作法みたいなものを共有してから話始めることにするのが良いだろうか。さすがにちょっとめんどくさいよなあ。お互いにさ。