食における、個人的な好みと文化的な慣習 2022年8月4日

日本における肉の消費量は、実はそんなに高くない。もちろん、江戸時代に比べればびっくりするくらいに多いのだけど、現時点でアメリカ合衆国と比べればずいぶんと少ないのだ。食文化が欧米化しているというのだけれど、肉だけを見ると「そこそこ」かもしれない。

日本人はずっと長い間草食だったというのが当たり前になっている。実際、江戸時代と明治時代を比べると、たしかに違う。植物性の食事がとても多い。だからこそ、肉食をリスタートしたときには、なかなか受け入れられなかった。獣臭いって言うんだよ。西洋文化の中で、魚が食べられない人がいる。その人達が口を揃えて生臭いっていうのと一緒だよね。慣れていないんだ。

もしかしたら、どこかで書いたか喋ったかもしれないけど、食習慣というのは慣れが影響しているのだろうと思う。個人でもあるし、文化的なものでもある。こういうことを考えていくと、食の好みは個人が規定しているのか、それとも文脈に規定されているのかという問いが生まれるよね。

この文章が公開される頃には、もう少し解像度が上がっているかも。今度、「食べたいものを決めているのは誰?」というウェビナーに参加する。エッセイ公開時点では受講済みになっているのだけど、まだ影響を受ける前に考えを少し残しておこうかと思ってね。書いているのはまだ7月です。

あ、そうだ。梅干しのシリーズの中で言及しているか。強烈な味のものでも、家族や友人の影響によって、徐々に美味しいと感じるようになるという話。そういうことってあるよね。クサヤを作っている人も似たようなことを言っていた。もう生まれた頃からあの匂いを感じて生きているから、今更臭いとは感じないとか。

そういえば、日本人も長い間肉を食べてきた。現在のアメリカほど大量というわけではないけれど、ちゃんと肉を食べている。奈良時代あたりまで遡ると、わりと体格が良いらしい。そんなに遡らなくても、江戸時代もちゃんと食べているんだ。

17世紀に「料理物語」という書籍が出版されている。日本最古の料理の専門書とされているものだ。料理物語では、魚の部、鶏の部、などに分類されて紹介されている。その中に獣の部も登場する。考えてみれば当然のことで、例えば鷹狩りにいけばウサギなどの小動物を捕まえることになるのだ。この獲物をどうするのか。それは食べるよね。ただし、獣肉は穢れと考えられるようになっていったから、現在ほどメジャーな存在ではなかったはずだ。

あまり肉を食べてこなかったというのは、たぶん事実だろう。というのは、養殖していないことからわかる。食料生産という意味で考えれば、家畜として飼育するのが最も効率が良いはずだ。けれども、家畜は少ない。鶏や一部の酪農くらい。ほとんどは、山で狩りをして得たもの。現代風に言えばジビエである。ジビエって特殊な料理のように聞こえるけれど、肉食というのは本来はジビエのはずなんだよね。だって、魚だったら天然が上物だってことになっているでしょ。魚に置き換えると、世界中で流通している肉のほとんどは養殖だということになる。と脱線してしまった。

野菜中心生活だから、肉を食べない。ではない。宗教的に食べてはならない。ということだけが理由でもない。なんとなく、穢れっぽい。日本では平安時代以前から死を穢れとして捉えていたからね。しかも古い時代はちゃんと埋葬していないし。だから、獣の屍肉もまた穢として捉えられていたのだろうと思うのだ。

この感覚が染み付いている状態で、さあ肉を食べようとなったときには心理的な抵抗が働くよね。きっと。確かな理由はないけれど、なんとなく臭いし気持ち悪い、という程度のものだ。慣れというのは、長い長い文脈のなかで培われた慣習ということね。社会通念とか常識と言い換えても良いかもしれない。

これが、なぜひっくり返ったのか。どのような経緯で、現代のように肉食への抵抗感が無くなったのか。どうも、このあたりを掘り下げていくと面白いものが飛び出してくるのではないかと想像している。まだ勉強中なのでなんとも言えないのだけれど、飢饉や外国との関わり方などから日本人の精神構造が変化したのかもしれないと思っている。ただ、これも片手落ちな気がする。直感でね。もう少し構造的に把握することは出来ないだろうか。いくつかの出来事が、様々なベクトルを発生させていて、その結果として肉食文化が一般に広まったと。

今日も読んでくれてありがとうございます。周辺のことをいろいろと見ていくのが良いのかな。直接的に調査をするというよりも、様々な時代と食文化と流れを眺めていく。そしたら、どこかで気がつくポイントが見えるかもしれない。という期待を込めて、この問をアクティブに設定して心の中に沈めておくことにしよう。

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