しばらく前に、「当たり前過ぎてプロが教えない調理のコツ」という特集を見た。なるほど、その通りかもしれない。視聴者の疑問に答える形なのだけれど、案外まともに答えられない自分がいる。というのも、そんな疑問を持っているのかと驚くことが多かったのだ。
例えば、ブリの照焼。生臭かったり、パサパサしてしまったりすることが悩みだというのだけれど、そもそもそのような経験がないのだ。流石にこれに関しては理由がわかった。下処理の問題もあるだろうけれど、皮目がしっかり焼けていないのだ。
だいたい、日本料理ではフライパンで魚を焼く機会は少ない。炭火かどうかはさておき、炙り焼きにするのが基本である。家庭用のレンジで調理することがあっても、フライパンではなく備え付けのグリルを使用する。良し悪しではなくて、もはや条件反射に近い。そういうものだと思いこんでいると言い換えてもいいかもしれない。
魚を切り身にして串にさす。そして皮目からじっくりと焼いていくのが基本。だから、魚を切るときも串に刺すときも、皮がしっかり焼くのに都合が良い形にする。これを日常だと思っていると、そうではない状況を想定すらしないのだろう。
なるほど、タイトルのとおりだ。専門職にとって当たり前だと思っていることが、そうではない人々にとっては当たり前ではない。お互いのことがわからないから、お互いの悩みに気が付かないのである。世の中には、こうしたことがたくさんあるのだろう。料理に限らず、だ。
しばらく前から、市役所の仕事を手伝っている。いろいろと呼ばれることがあるのだけれど、現在は「文化財の保護活用計画」に関するものだ。計画書の策定に関して、方針や文書にツッコミを入れていくのが主な役割。とにかく意見を言うことが求められる。多少場が荒れようが、空気を読んでいたら仕事にならない。
有識者が作成する計画書は、難しくなりやすいらしい。論文や書籍をたくさん読む人ならば、とくに違和感をおぼえることはないだろうけれど、そんな人は少数派なのではないかと思う。今でこそ、たべものラジオのために沢山の本を読むので、多少の免疫は付いたのだけれど、はじめの頃は大変だったのだ。言い回しがくどかったり、一文が長かったり。それだけで読みづらく感じてしまう。本当は、クドいのではなく丁寧なだけだし、一文が長いのは、そのほうが正確に意図を伝えられるからだ。ただ、それは読むための訓練を必要とするのだ。
表現方法もそうだけれど、基礎知識の前提も異なる。分かる人にとっては「当たり前のこと」であっても、そうでない人にとっては「新情報」なのだ。考古学的発掘調査、古文書の収集や整理や保存、保護に関する取り組みとそれにかかる予算、市民の認知を高めるための工夫。どれもこれもが、日常に関わらない人にとっては未知の世界である。
行政が打ち出す計画書は、誰に向けて作られるものなのか。そこから始めなければならない。内部的には詳細かつ実現的なものが求められるだろう。議会で予算を獲得するならば、起業家がピッチでプレゼンテーションするようなものが良いかもしれない。市民を巻き込むためならば、共感を高めるものが必要になるのだろうか。いずれにしても、読み手のことを想像する力が求められるようだ。
知らないことを知るというのは、それだけでも娯楽と言える。興味がなくても、だ。だから、多くのクイズ番組や情報バラエティ番組がある。それだけ展開されているということは、「知る」が楽しくて視聴率が良いということだろう。日本人は知的好奇心が高い民族と言われるけれど、個人的にはホモ・サピエンスの性質なのじゃないかと想像している。
誰もがなにかしらの専門家。小学生は小学生らしい遊びの専門家。反抗期の気持ちは反抗期の青年が一番わかっている。営業部は経理の気持ちがわからない。虫が苦手な人は、虫好きな人の気持ちがわからない。世の中そんなものだろう。
ただ、理解してみると面白いと思う。共感はしなくてもいいし、意見は違って良い。話を聞いてみたら、理解はできる。そんな程度でも、社会を面白がることができそうじゃないか。みんなの当たり前をちょっとずつ放出するためには、当たり前だと思っていることを話したり聞き出したりすることが必要になるのだろう。
今日も読んでくれてありがとうございます。料理をしない人だって、料理番組を見るのが楽しいってこともあるじゃない。ちょっと古いけど「料理の鉄人」という番組が人気だったのも、「美味しんぼ」が未だに人気が高いのも、そういうことなんだろうね。そういうメディアのありかたがもっと増えたら良いのにな。