料理を味わっているんじゃなくて、情報を味わっている。なんてことを言われるようになった。言われるようになったと「変化」に気がついているのは、実はぼくじゃなくて両親である。ぼくよりも30年近く長く生きているだけなのだけれど、その間におきたことなんだろうね。
情報や物語を楽しむという文化は、ずいぶんと昔からあったと思う。映画武士の献立で有名になった舟木伝内の逸話にも登場するし、茶道を大成した千利休の思想にもある。現代の情報かとちょっと違うのは、情報の受け取り方だろう。
たべものラジオをやっているぼくが言うのもおかしな話だけれど、食に関する情報は文字などで得ることが多い。産地はどこで、どんな人が作っていて、どんな思いが込められているのか。それをどんな思いがあって、どんな工夫をして調理しているのか。雑誌でも動画でもWebサイトでも、こうした情報が多く並んでいる。食文化の歴史を紹介しているものは少数派になるだろうね。まぁ、少数派だからたべものラジオを聞いてもらえているのだろうけど。
物語を楽しむという意味で、個人的には「情報を味わう」ということに対して肯定的に捉えている。ただ、同時に片手落ちだなぁ、とも感じている。
情報って、文字からだけで得るものじゃないと思うんだ。五感を通して体の中に入ってきたものも情報なんじゃないかな。味はもちろん、見た目、香りなどいろんな情報があるでしょう。そうしたたくさんの情報の中からも、いろんな物語を想像することが出来ると思うんだ。
いつだったか、お土産に「武蔵野うどん」を頂いたことがあった。色が濃くて、太くて、すごくコシが強い。ちょうどたべものラジオで蕎麦を配信していた頃だったから、武蔵野うどんをチョイスしてくれたんだろうと思う。麺自体がはっきりと味を主張してくる。コシが強いから噛み締めなくちゃいけなくて、さらに麺の味を長く感じることになる。こういう主張がわかると、作りての思いも、その地域に伝わる文化もなんとなく透けて感じられるように思えたんだ。裏作で作られた麦が豊富だったんだろうな。内陸なのに塩気が強いのは、流通がよい地域だったんだな。ついクセで歴史文化に思考が寄っていってしまうのだけれど、いろいろと「感じる」ことはある。
太陽の光を浴びる。森の中に足を踏み入れてみる。足元の草に手を触れてみる。手についた土の匂いを嗅ぐ。料理というのは、誰か人の手による情報が含まれているという意味で、「現物」と「意図」の中間に位置するんだと思う。繋ぐというか、橋渡しのような存在。これは、そうであって欲しいなという希望があるから、そう思うんだろうけどね。
文字情報は、現物から得た情報を体系化したもの。情報化済みと言い換えられるだろう。それ自体が意味がないということではなくて、現物とのつながりを感じることも一方で大切なことなのだ。情報を味わうときには、きちんと五感を働かせて現物にまっすぐ触れる。そんな感覚をもっている。
五感を通して現物から感じ取ること。現代社会では放って置くと、その機会が少なくなっているように見える。一方で、情報化された情報は生活の中で勝手に触れることになる。例えば、親が子供に対して教えなくても勝手にゲームやコンピューターに触れて馴染んでいくようにね。だから、機会が少ないところへと子供の頃にいざなうことが大切なのじゃないかな。大人になったら距離ができてしまうようなこと。もう、山の中を走り回る体力もないし、枝を折って何かを作って、日が暮れるまで秘密基地を作るなんてこと、やらないからね。でも、子供の頃にはやったんだ。五感を通じて入力する感度を養っておくっていう話。
今日も読んでいただきありがとうございます。こういうことを書くと、脱現代社会みたいな主張のように聞こえるし、そう捉えられるかもしれない。懐古主義っぽいことを言いたいんじゃなくて、ちょっと偏っているからバランスを取ったほうが良さそうだぞ、と言いたい。もし、もっと自然中心に偏っていたら逆のことを言うだろうからね。