江戸時代の物流を調べていて、ふと気がついたことがある。物資というのは、移動交換されるものなのだけれど、表面上に見えているモノの移動だけでなく、裏側にあるモノゴトも一緒に移動しているようにも解釈できる。
例えば、回米。全国各地の米の一部は江戸や大阪に集められた。納税のためだったり、貨幣を獲得して諸般の財政に充てるためだ。米が移動したとも言えるし、同時に貨幣が移動したとも言える。水が移動したとも言えるし、労働エネルギーが移動したとも言える。ヴァーチャルウォーターに似た考え方だ。
ヴァーチャルウォーターというのは、主に農業生産品の移動に関して語られる。日本が大豆をアメリカやブラジルから輸入する。産出国では、日本に送るための大豆を育てるのにどれほどの水が必要だったのかというのがヴァーチャルウォーターという指標。日本は世界でも水が豊富な国として知られているのだけれど、ヴァーチャルウォーターに換算すると膨大な量を輸入していることになる。牛肉を育てるためには、飼料が必要で、その飼料となる例えばトウモロコシを育てるために水が使われる。もちろん、牛も水を飲む。といった具合だ。これは、当然国内でも起きている。大消費地におけるヴァーチャルウォーターは相当な量になるらしい。
近年になって、地方自治体が東京などに出店しているアンテナショップが減少している。これもまたモノと一緒に他の何かも移動していると考えられる。一番わかりやすいのは貨幣だろうか。
遠く離れた地へと地方の物産品が移動する。アンテナショップを展開するためのお金も移動する。かつては、銀座の一等地に数多くのアンテナショップがあったのだから、おそらく家賃だけでも年間数千万円になるだろう。
地域全体の貨幣の総量で考えると、減少していることになる。それはもちろん、アンテナショップが赤字だからだ。赤字になっていないアンテナショップが存在したのだろうか。と思うくらいの状況である。
銀座界隈に滞留している貨幣を吸収して地方に送る。地方に滞留している貨幣を銀座に送る。そのバランスが等しくなく、マイナスの状態。というのが、アンテナショップの赤字ということだ。これをきっかけに地域への旅行客が増加して、地域で消費をしてくれれば採算が取れる場合もあるかもしれないけれど、そういう楽しい話はあまり聞かないのが現状。
江戸時代の米の話に戻るのだけれど、回米は飢饉の時でも行われた。地元の食料が足りない状況であっても、藩の蔵にある備蓄米はお金に変えるために江戸に出荷されていたのだ。人民救済のことを考えれば、蔵を解放して庶民の食糧に充てるのが妥当なところ。実際にそういう政策をとったという事例もかなり多い。一方で、備蓄米を売ってしまったという事例も多い。
江戸時代も中期以降になると、多くの藩は財政難におちいっている。商人たちから借金しまくっているのだからしょうがない。米本位制というのは、米の価値を軸として貨幣の価値を定めるという方法なのだけれど、米は金と違って食べてしまうし作り出すことができる。安定しないのだ。それに、麦や蕎麦といった主食級の他の穀物が増産されるだけでも米の価値は変動する。江戸初期と中期では、米の価値は相対的に落ちていくわけだ。だから、貨幣を獲得するためには大量に生産して年貢を集めて販売するしかない。
史上最悪クラスと言われる天明の飢饉でも東北諸藩の備蓄米は現金化されていたという。前年までの5年間が豊作だったから油断したと言われている。
食と貨幣と暮らしの関係を、歴史を通して観察してみると、一体何が見えてくるのだろう。地域や個人の間で、あらゆるモノが交換されている。交換されるモノが、質の上でも量の上でも同等であれば、基本的に格差は起きないということになるのだろうか。もし、そうだとして「あらゆるモノ」を均等に交換することはできないような気がする。
日本はまだマシな方だと言われているのだけれど、経済的格差が大きくなっていることが問題になっている。貨幣の偏りだ。水はどうだろう。食料はどうだろう。エネルギーはどうだろう。と考えていくと、頭が痛くなってくるようだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。きっと、どれかを解消しようとすると他の何かがこじれるんだろうなあ。今は貨幣が優先されているように見えるのだけれど、それはそれで重要なことなんだよね。ただ、ちょっと一点に集中しすぎじゃないだろうか、という気もするんだよね。書き出してみたものの、結局モヤモヤしたままだった。