概念とか仕組みとか、やりたいことにかける思いとか。自分の中で生まれつつある思考って、なんだかモヤモヤする。そんな感覚ってない?
うまく言語化出来なくて、だからこそ伝わらないってこともあるのだけど。そんなことより、自分でうまく理解できないでいるのがモヤモヤするのだ。整理できていないという表現のほうが近いかもしれないな。
本当は一筆書きみたいに、すっきりと描くことができれば良いとは思うんだ。だけど、その線が見いだせないでいる。だから、薄い線を何本も何本も重ねていって、なんとなく輪郭のようなものを探していく作業が必要だったりする。ぼくの場合は、それを頭の中でずっと寝かせておくこともあるし、こうしてエッセイという名目でつらつらと文字を並べてみるということもしている。
そういう意味で、このエッセイは僕自身の役に立っているわけだが、一方で気になることもある。整理や理解のために、言語だけでいいのかってね。
図解するというのもあるんだけど、そういうものじゃなくて、もっと感覚を通して理解を深めることもあると思うんだ。
例えば季節を感じるというようなもの。どういうわけか、日本文化では季節感を感じ取ろうとする。四季という程度の荒い解像度ではなくて、無限とも思えるほどの自然現象を捉えようとしている。寒風に身を縮める小鳥を見ては冬を感じ、小春日和に凧揚げをする子供の姿をみては感じ入る。そのどちらも「冬」という枠に当てはめるわけだけれど、同時に冬のグラデーションを感じては楽しんでいるようだ。
不思議なもので、四季とか二十四節気などの「枠」に当てはめることで、その内側にあるグラデーションを見出す感覚がある。乱暴に「冬」というカテゴリに規定するんじゃなくて、そこに置くことでより詳細に感じ入ろうとしているように思えるんだ。
その方法は、ときに詩歌であったり、ときに絵画であったり、暮らしの中の一輪の花だったり、食事だったりする。日常の傍らにそっと寄り添うように置く。
置くというのは、「ただそこにある」というのとはちょっと違う。置こうとして置いているからだ。明瞭な意図がある。そして、それは整えられている。庭の落ち葉を掃くという行為を、次に落ちてくる落ち葉のために場を整えている。と、誰かが言っていたけれど、そんなふうにして「傍らに置く」ことのために周辺が整えられているのだ。
整えられているから、より鮮明に意識を向けることができるとでも言いたいのだろうか。それとも、整えたことでより自然な形で傍らにあり続けられるとでもいうのだろうか。このあたりはイマイチよく掴めていないのだけれど、それは「ただある」のとは違うように思えるんだ。
言語ではないもので心のなかに置こうとする。というのと近い感覚を持っている。これ、伝わるかな。それこそ「言語」では表現しきれないのかもしれない。少なくとも、ぼくの言語能力の限界なのだろう。
日本の年中行事は、やはり季節を捉えたものが多い。もしかしたら、年中行事によって季節を整理して捉えているのかもしれない。今日は小正月で、神社ではどんと焼きが行われるのだけれど、これを迎えることで正月が明けるという季節感を得ていると言えそうだ。
そもそも、行事というのはモヤモヤとしたとらえどころのない感覚を言語ではない方法で捉えるための仕組みなのではないだろうか。そんな気がしてきた。感覚を整理するために、身体的に理解していくために、なにかしらの動作を行うのだ。これは、身体知と呼ぶものなのだろうか。いや、その一歩手前という感覚のほうが近いか。
「和食」が世界無形文化遺産に登録された時、その特徴のひとつに「行事食」があげられていた。その本質は僕には語ることは出来ない。ただ、ぼくなりの解釈がある。
自然の中で生かされているという感覚があり、だからこそ自然とその移ろいを捉えようとしている。それは神の存在を感じようとする行為に似ているのかもしれない。日常の中に時々「ハレの食事」を作り出し、自然と正対して捉えようとする。そのために「置く」という行為なのだ。とね。
今日も読んでいただきありがとうございます。昨年末も元旦も仕事だったんだ。だから、本当に季節感が消失してしまったみたいで、ただ月が変わったくらいの感覚でしかなかった。それでも、なんとか正月だなぁって思えたのは黒豆を焚いたり、錦玉子やお煮しめや紅白なますなどを作ったから。季節の移ろいって、捉えに行こうとしないと漫然と流れ去っちゃうものなんだろうな。