ちょっと前に、テレビで児童虐待に関する特集をしていた。虐待は絶対に無い方が良いに決まっている。これに反論する人はいないと思うのだけれど、一方で虐待通報が問題になりつつあるという。
「いつまでも泣いていると、一緒にいられなくなっちゃうよ」
そう子どもに言う親が増えているそうだ。ぼくらが幼い頃ならば、「鬼が来る」などと怪異が恐怖の対象だったのに比べると、随分と現実的で、その分だけ冷え冷えとした恐ろしさがあるように感じるのだが、どうだろうか。
東京で仕事をしていた頃は、同じマンションの隣人が何者なのかは知らないのが当たり前だった。朝晩の通勤時や、ゴミ出しのときには顔を合わせることもある。けれども、その人がどんな仕事をしていて、どんな人柄なのかは知らない。ましてや、共通の話題で談笑することなどほとんどない。その人の家族が、どんな生活を営んでいるかなど想像することも難しい。わかっているのは、ただ似たような間取りに住んでいる人であるということくらい。あとは断片的に漏れ聞こえてくる音や匂い。
窓からタバコの匂いがする。醤油が焦げる香ばしい匂いがする。子どものはしゃぐ声がする。たまには夫婦喧嘩の声や、子どもを叱る声も聞こえる。
田舎のまちでは実にほのぼのとした「こぼれ出た生活の断片」だけれど、それは家族の生活が想像できるからだろう。想像できるだけの情報が、たくさんあるからこそ断片から想像ができるのだろうと思う。
そもそも、家にいる時間がとても少ない。言い換えると、地域に接続している時間が少ないのだ。1時間ほどかけて通う会社組織のほうが、つながりが深い。そこには多くの「地域との接続の薄い人」が集っていて、濃密な接続をしている。経済活動の中心地だ。
歴史を遡れば、地域は生活の基盤であり、経済の中心であった。江戸時代も明治も大正も昭和も、わりと小さなコミュニティの中で経済が回っていた。その分だけ、つながりが強かったのかもしれない。みんなが小さな商売をしていて、小さいからこそ経済力も弱くて、だからこそ「お互い様」の精神でなければ社会が成り立たなかった。
経済発展のためには、規模の拡大が必要。それと引き換えに地域でのつながりが薄くなった。というと、極端かもしれない。もちろん、規模を拡大しても地域とのつながりを保っている人もいる。けれども、大きな流れとしては、こうした構造が生まれたと認識できるではないだろうか。
経済によるつながり。もしも、それが人と人との接点だとしたら、地域のつながりが希薄になるのは当然の結果だ。もう何年もの間「地産地消」運動というのが各地で展開されているのだが、この本当の目的は「地域のつながり」を取り戻そうという試みなのかもしれない。
地域のつながりは、互いの顔が見えること、お互い様の精神で助け合うことになる。災害や犯罪への対策としては、これがとても重要になるはずだと思っている。土手を作るのも、避難所を整備するのも、見回りを強化するのも大切だけれど、最後は地域社会の互助が肝になる。現に、被災地のその後は地域の互助によって支えられているという。
経済的なつながりを地域に取り戻そうとすると、今度は経済規模が縮小することになるのだろうか。今回は、わかりやすくトレード・オフの関係として論を展開してみたのだけれど、これはあくまでも試みでしかない。本当は、トレード・オフの関係ではなく、現代に適したバランスのとり方があるのかもしれない。
いや、現行の経済の仕組みに合わせたカタチで地域のつながりを強くする仕組みが必要なのか。それとも、完全なる不干渉の社会を作り出すのか。
今日も読んでいただきありがとうございます。地域のつながりのことを考えると、お祭りっていうのはけっこう重要な機能なんだよね。そこにいて、同じ法被を着ているってだけで仲間の感じがするもの。参加して、久しぶりに友達に会うと、たいていは近況報告から始まるんだよね。そういう時間って大切。祭りと食文化って緊密な関係にあるから、一緒に飯を食う機会を作るのも良いんだろうな。芋煮会みたいなやつ。