五感でも錯覚でもない「おいしさ」のすゝめ。 2023年6月3日

どんなに美味しいラーメンを食べたとしても、なぜかカップラーメンが勝ってしまうということがあるらしい。前職の上司がそうだった。

とにかくラーメンが好きな人なので、仕事一緒に外出するとき、昼食は必ずどこかのラーメン屋だったのだ。上司との食事の記憶は、昼ごはんのラーメンか帰り道の飲み屋くらいのものだ。毎回ラーメンばかり食べているものだから、自分の中にラーメンランキングが出来上がってしまったらしい。そこで、どのラーメンが一番なのかと訪ねたのだけれど、以外にもカップヌードルだと言う。

高校生の頃のことだ。彼女とデートしたときに、冬の寒空の中コンビニの前で肩を寄せ合って食べた味。これにまさる美味しさは未だに出会えない。

「おいしさ」には大別して2つの感覚があると言われている。ひとつは直接感じる感覚的なもの。もうひとつは、脳内で沸き起こる感情に起因したものである。脳科学でいうところのクオリアというものと同じなのかもしれない。不勉強で恐縮だが、説明するのに都合が良いので表面的に言葉を借りてくるとしよう。

クオリアというのは質感のことだ。クオリアは「感覚的クオリア」と「志向的クオリア」がある。

感覚的クオリアは、舌で感じる味覚や、目で見る色彩、香りや音やのどごしなどといった直接的なものだ。これらは、からだの末端にあるセンサーが感じ取ったことを信号として脳へ送る。志向的クオリアは、脳から末端神経へと影響する作用がる。雰囲気であったり、思い出との紐づけだったり、食材や料理の背後にある意味などがセンサーに影響するのだ。思い出の料理が特別に美味しく感じるというのがあるけれど、まさに志向的クオリアのことだろう。

ぼくは、麺類で選ぶならばソバが好きである。ラーメンも好んで食べに行くのだけれど、ソバが好きというのには志向的クオリアが強く働いているからだと思う。本格的なというか、ちゃんとした職人さんが心を込めて作ってくれたソバも好きなのだけれど、同時に駅の立ち食いソバも好きなのだ。

思えば、学生時代から社会人の始めの頃まで、とにかく立ち食いソバにはお世話になった。特に駅のそれが良い。学校帰りでも、朝の通勤前でも良いのだけれど、とにかくあの匂いには弱いのである。そば粉よりも小麦粉のほうが多いんじゃないかという麺。揚げたてのカラッとした天ぷらとは真逆のしんなりとした天ぷら。黒いつゆに、鰹節の香りだけは素晴らしい。あの安っぽい感覚がまた、なんとも言えなくてね。ああ、食べたくなってきた。

高校生の頃は、部活動が終わってまっすぐ家に帰ればじきに晩飯だということはわかっていたのだけれど、友達と肩を並べて間食としてソバを手繰ったものだ。小遣いにちょっと余裕のあるときだけ天ぷらが加わる。高校生でも常連になるとおばちゃんがネギをおまけしてくれることもあったっけ。

早朝出勤をしなければならない寒い朝には、電車が来る前に温かいソバをたぐる。寒くいから鼻水が垂れてくるのか、それとも熱いそばを食べているからなのかもわからないなか、電車のやってくる時間を気にしながら一気に食べきる。そんな時間も好きだった。

上司にとってのカップヌードルは、ぼくにとっての駅そばかもしれない。

近年になって、食料品店の野菜コーナーには顔写真やメッセージが掲示されることが増えてきた。生産者が見えることが安心感に繋がるという。さらにポケットマルシェでは、生産者と消費者が直接交流できる仕組みがあって、その食材に対する愛着が増したという。東北の漁師から直接さかなを買うようになった親子が、漁師の済む地域の天候や海の状況を気にするようになって、ついには会いに行ってしまったという話は胸を打たれる。

こうした、「食品の背後にある物語」は、確実にぼくらの味覚を狂わせる。センサーで10点と感じたとしても、追加点を与えてくれるのだ。

こうした現象は、ともすると批判の対象になることがある。絶対的な味覚ではないというのが批判の主旨だ。けれども、そもそも体の末端にあるセンサーは、それほど鋭敏には作られていない。ただの刺激を電気信号として脳へと送っているに過ぎない。それを甘いとかしょっぱいとかといった具合に感知するのは、脳がそう判断したからなのだ。つまり、「人間の感じるおいしさ」は脳の認知からは逃れることは出来ない。

だからこそ、料理店であっても家庭であっても、雰囲気が大切だと思う。どこで誰と食べたか。それが強い。数年前の楽しかった食事会を思い出してもらいたい。最初から最後まで食べた料理を言えるだろうか。話した内容を語れるだろうか。だれといて、それが楽しかったかどうか、だけが記憶に残っているということも多いだろうと思うのだが、どうだろう。

料理人としては、少々切ない思いもなくはない。けれども、いやだからこそ、一品一品に思いを込めて美味しく作るのだ。大切な思い出を加速させるための補助装置としての料理でも良いじゃないか。美味しい方が、良い思い出になるだろうから。

今日も読んでくれてありがとうございます。志向的クオリアを生成する装置として、実は「たべものラジオ」は有効なのだ。と勝手に思っているんだよね。豆腐やジャガイモをつまみにビールを飲む。と、心の片隅にヴォルムス帝国議会に召喚されたルター、若い頃の恋心を胸にジャガイモを広げた川田龍吉、豆腐百珍がちらりと思い浮かぶかもしれない。だとすると、美味しさを加速させるという意味では料理を作っているのと同じくらいの効果があるかもしれないよ。ぼくの声まで思い出しちゃってたらゴメンなんだけど。

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