職人の修行って、ふたつの意味があると思う。ひとつは技術。そしてもう一つは、美の体験だ。
言葉にすると他愛もないように思えるし、うまく言葉になっていないような気もする。
例えば料理だけど、技術というのは料理屋で修行するだけでなく、いろんな学び方がある。書籍や動画も良いだろうし、学校に通うのも良い。お金を払って学校に行くほうが、給料をもらって働くよりも丁寧に時間をかけて教えてくれるだろうしね。
現場で技術を学ぶことの大きな利点は、微差や感覚について直接学べること。火加減とか鍋の振り方とか、包丁の動かし方とか。こういう感覚って、ひとりひとり違うものだから伝えようがない。下手に言語化すると、その言葉に囚われてしまって、かえって良くない結果になることがある。だけど、長い時間一緒に働いていると、お互いのクセとか感覚をある程度共有できるようになるものだから、オノマトペで伝わってしまうこともある。料理を作るという行為だけじゃなくて、一緒に食事したり雑談したり、いろんな共有体験があるっていうことが大切なんだろうな。
あとは、考え方とか経験を聞けるというのもありがたい。思ったように材料が揃わなかったとき、どんな工夫をしたのか。他の調理方法を試してみたら大失敗した。案外、こうした実例を聞く機会は少ない。学校も書籍も、基本的に良い部分を選抜してあって、キレイに整えられている。整えられているからこそ、ふるいにかけられた良質な情報なのだ。だけど、時には振るい落とされた体験の中にも学びになることがあって、そういうのはやっぱり現場で働く人、特に先輩たちから聞くのが良いと思う。
理想と現実。というとちょっとニュアンスが変わってしまうけど、実際に料理を「職業」として行っていくことでしか知り得ない現実を知る。これは学校ではなかなかわからないだろうね。実際に山登りをしてみると思ったよりも膝に負担があるな、と体感するようなもので、頭でわかっていても体験を通じて腑に落ちるってこともあるじゃない。そんな感じ。
で、いちばん大切なのは「美の体験」だと思っている。
善と言い換えても良い。
その道で達人とされている人たちが、何を良いと思っていて、何を美しいと感じているのか。料理のアイデアも考え方も、その大元になっているのは価値観そのものだ。知識や技術は、それを表現するための道具である。
調理台やシンクをピッカピカに磨いたり、台拭きを固く絞ったら丁寧に畳んで使ったり。特に合理的な効能があるわけではない。調理台もシンクもきれいに洗ってあるのであれば、鏡のように磨く必要はない。台拭きだって、ちゃんとキレイに管理されていて、必要なときに必要な働きをしていれば問題ない。
でも、そういうことを指導されるのだ。最初のうちは理不尽にも思えるし、合理的でないと思うこともある。だけど、個別具体の合理性のためにやっているわけではないのだ。ひとつひとつの所作が折り目正しくきちっとしていないと気持ち悪いと感じる感性を育てるために指導されている。
この感性が育ってくると、お盆や器のちょっとした汚れが気になって仕方がない。盛り付けだって、ちょっとでも曲がっていると納得できない。調理台の上に四角いお盆を置くとき、斜めになっていると居心地が悪いと思うくらいになっているからこそ、出来上がりの美しさを追求できる。超敏感。
親方に盛り付けを直されたとする。感性のレベルが低いと、直される前と後の違いがよくわからない。違いが分かっても、どちらのほうが美しいのかわからない。美なんてものは、本来個人差があるものではある。だけど、繰り返しいろんなパターンを試していくと、どういうわけかこれが美しいと共有できるポイントが見えてくる。こればかりは、繰り返し「体を動かす」ことでしか体得できないのじゃないかと思う。
これ、なかなか伝わらないのだけど、茶の湯や立て花をやっている人だと分かってくれる人がいる。感性を磨くって、超敏感になるってことでもある。
今日も読んでいただきありがとうございます。何を求めて何になりたいか。それこそ人それぞれなんだけどさ。修行の効用って、身体知そのものなんだと思うんだ。ちょっとフィールドワークしたくらいじゃ、たぶんわからないくらいの体験の積み重ね。