今日のエッセイ-たろう

スマホで論文。 2024年1月21日

ちょっと聞いた話なんだけど、最近の大学生ってスマホで論文を書くってホント?全員じゃないとは思うんだけど、オジサン世代にとってはびっくり現象だ。

論文作成を「文章を書くこと」に置き換えて、分割して考えるとわからなくもないか。思いついたことをメモしておく。情報を収集する。いくつかの文章を入力しておく。などということは、ぼくも普段からスマホで行っている。最終的に長い文章を書くときには、PCを利用するのだ。

以前、何度かスマホでエッセイを書いたことがある。移動中にPCを開くのも面倒だから、ささっと済ませられて便利なのだ。けっこうな長文を書いたつもりだったのだけど、あとからPCで見返してみると、さして長くないことに驚いたのを覚えている。普段の感覚とのギャップがそうさせたのだろう。

画面の大きさ。つまり視認性や一覧性は、ぼくにとっては大切らしい。パッと見て、ある程度の情報が視界に入ること。これによって、なんとなく全体のバランスを取っていたり、構成を考えているのかもしれない。ただ、これは[ぼくの場合」の話

なにしろ、ぼくらは長らく「紙」を中心にしたインプットとアウトプットをしてきた。学校の勉強だって、見開きになっていることに慣れている。本もそうだ。デジタル版の書籍を読むこともあるのだけれど、1ページずつよりも見開きの方が、なんとなく落ち着く。合理的な理由なんかはなくて、ただなんとなく「落ち着く」のである。

もし、こうした従前の環境を体験していなかったら?もしかしたら、スマホの方が自然に感じるのかもしれない。PCのようなキーボードよりも、フリック操作の方が文字入力が早いという人もいるだろう。フリック操作に習熟していることもあるし、逆にキーボード操作に慣れていないということもある。それに、情報の記憶力が良いかもしれない。スマホのような表示は、全体のなかの一部を抜き出して見ているだけなのだけど、脳内で再構成されていることも有り得る話。そのように環境対応した個体が現れても不思議はない。というのが、生物の面白いところだ。

つまり、ぼくらの「不便そうだな」という感想は、ぼくの立場から見たものであって、スマホ環境に適応した人たちにとっては、全く当てはまらないということだ。

人間って、けっこう環境適応が下手なんだな。頭ではわかっていても、体がついていかない。本当はついていこうと思えば出来ないこともないのだろうけれど、長年の生活習慣や癖を修正するのは大変なのだ。労力もかかるし、なによりも面倒くさい。

それでも社会はどんどん変わっていく。だから、新しい世代と旧世代との間に適応のギャップが生まれるのだろう。どちらがいいとかそういう話じゃなくて、そういう構造なんだろうなって思ったという話。

人間の脳は、そこまで早い変化に対応できないというものなのだろうか。そういう仕組なのかもしれない。だとすると、けっこう頑張らないといけない。なにしろ、人類はかなり寿命が伸びたのだ。入れ替わりのサイクルが長くなった。一方で変化の速度は上がっている。ヒトという集団は環境対応のスピードが遅くなっているのに、環境の変化は早くなっている。こりゃあ、けっこうな努力が必要になりそうだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。ぼくらが順応性を高めていくのか。それとも、社会の変化速度を落とすのか。その間をテクノロジーがつなぐことになるのか。そうそう、もし200年前だったら、ぼくはもう老境にあるのだよね。

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武藤 太郎

1988年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ、カルフォルニア州の大学留学。帰国後東京に移動し新宿でビックカメラや携帯販売のセールスを務める。お立ち台のトーク技術や接客技術の高さを認められ、秋葉原のヨドバシカメラのチーフにヘッドハンティングされる。結婚後、宮城県に移住し訪問販売業に従事したあと東京へ戻り、旧e-mobile(イーモバイル)(現在のソフトバンク Yモバイル)に移動。コールセンターの立ち上げの任を受け1年半足らずで5人の部署から200人を抱える部署まで成長。2014年、自分のやりたいことを実現させるため、実家、掛茶料理むとうへUターン。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務める。2021年、代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなどで活動している。

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